「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」は、寅さん映画の白眉と言っても過言ではない。

「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり」とは、よく言ったものだ。「片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」という訳で、ひとり旅に出ようと思っている。というのは真っ赤な嘘で、DVDの在庫がどんどん増えて、今や未見の映画が200本以上溜ってしまった。このペースでは、在庫分を観終わるのにあと1年くらい掛かかり宗谷岬なので、必死のパッチで観続けなければならない。
 
しょっちゅう旅に出ているといったら、寅さんだ。この映画は1975年の製作だから、40年前だ。寅さんもまだまだ若かった。マドンナ役のリリーこと、浅丘ルリ子さまも、お美しかった。
 
寅さんだけは、20過ぎの頃から1982年製作の第29作「寅次郎あじさいの恋」あたりまで、映画館で欠かさず観ていた。その後は、熱心なファンではなくなってしまった。ちょうど映画館にあまり行かなくなった頃と合致する。そのうち、映画はもっぱらレンタルビデオで観るようになってしまった。一方、寅さんは、実年齢より遙かに若そうなまま、旅から旅のその日暮らしを続けていたが、こちらは、嫁さんと二人のいたいけな幼子を抱えて悪戦苦闘、刻苦勉励、臥薪嘗胆、奮闘努力、疾風怒濤、序破急急、波瀾万丈、青天霹靂、驚天動地、切歯扼腕、青息吐息、じっと我慢の地道な堅気暮らしだった。寅さんのような自由気ままな旅がらすとちがって、しがない給料鳥で、朝出かけて夜遅く帰宅するまで、休日出勤もしょっちゅうで、連日14~5時間労働を続けてた。今なら間違いなくブラック企業だ。
 
あの頃はまだまだ無理がきいた。最近は老骨に鞭打ってもすぐに腰砕けだ。夕方6時頃になると、お尻がむずむずしてきて、頭がぼーっとしてきて、目がかすんできて、さっさと帰宅部になってしまった。帰宅途中に、キャバクラに引っかかる訳でもなく、すんなりご帰還だったのだが、鉄砲玉の嫁さんは、どこぞに遊びに出掛けていて、まだ帰っとらん。玄関に迎えてくれるのは、愛猫だけだったのだが、その愛猫も、ついこの前、天寿を全うして急逝してしまった。合掌。
 
帰る所はあるとは言っても、灯りもついてなく、猫も迎えてくれない。さくらやおいちゃん、おばちゃんのいる葛飾柴又に、いつふらっと帰って来ても、みんなが温かく迎えてくれる寅さんとは、大違いだ。こんな酷い仕打ちされても、へこたれへんぞっ!とばかりに、最近では、帰宅途中に旨いものを食べまくっている。
 
映画の話に戻ると、このリリー4部作の第2作は、寅さん映画の白眉と言っても過言ではない。第11作「寅次郎忘れな草」のラストで、寿司屋の女将さんになってしまっていたリリーに、「やっぱり、リリーも堅気の暮らしがいいのか」とちょっと失望したのだが、この映画では、しっかりデラシネの女旅がらすに舞い戻っていた。
 
リリーは、浅丘ルリ子のはまり役で、浅丘ルリ子以外のリリーは考えられない。分け隔てのない優しさの持ち主にして、男勝りの自主独立の気概が同居している。さっぱりとした気性で、お上品じゃないが、決して下品ではない。「女版六然」の境地だ。リリーは、どさ回りのキャバレー歌手という設定だが、キャバレーというものが前世紀の遺物化してしまった現在では、絶滅危惧種かもしれないが、昔は旅回りの売れない歌手というのが、結構いたみたいだ。個人的には知らないが・・・。
 
自処超然(ちょうぜん)  ちょっと脱力系で、自分のことにはあまりこだわらず
処人藹然(あいぜん)   人に接するときは和やかにのびのびと、誰にでもやさしく
有事斬然(ざんぜん)  何をするにも、うじうじしないできっぱりとやり
無事澄然(とうぜん)  何もなければ、カリブの海のように澄み切っている
得意澹然(たんぜん)   調子のいいときは、かえってあっさりしていて
失意泰然(たいぜん)  へこんだときも、ジタバタせずにゆったり構えている
 
へこんだときだけは、さすがに女だから、結構ヒステリーを起こしてぶち切れる。ひたすら我慢というか、やせ我慢というのは、しがない中年リーマン男の専売特許かも試練。事なかれ主義とも言えるが・・・。リリーの孤独感は、寅さんの孤独感より、ずっと重く、深かった。女三界に家なしだから、仕方がないと言ったら、それまでなんだが、寅さんが、いつでも柴又に帰って来られるのに反して、リリーは、帰るべき故郷を持っていない。当然のように、リリーは、家族の温かさ、穏やかな家庭、地道な堅気の暮らしに飢えている。自分を捨てた母親との葛藤は、寅さんにもあったが、リリーの実の母親へのアンビバレントな感情は、想像を絶するほどに暗かった。
 
リリーも、寅さんも、堅気ではない、キャバレー歌手も、テキ屋も、やくざな稼業というか遊び人(=自由業)だから、遊び人ならではの、特有のニオイみたいなもんが、身体に染みついてるのだろう。ゲイや、本物のやくざが、同類を嗅ぎ分けるのと、似たたようなものか。「寅次郎忘れな草」で、最初に出会ったときから、ふたりの間には、仲間意識があった。
 
そんなふたりともう一人、蒸発した堅気のサラリーマン、トッチャンボウヤのパパが加わって、男ふたりと女一人の道行きが始まるのだが、このロードムービー部分は、めちゃくちゃよかった。誰もがあこがれる非日常の気ままなその日暮らし、その舞台が北海道の大地であれば、ロマンチックな気分満点だ。しかし、3人の珍道中の終わりは、突然やって来た。例のごとく、寅さんがリリーをいたく傷つけるデリカシーのない暴言を吐いて、リリーが腹を立てて去っていった。この時の寅さんは、まさに柴又のおいちゃんやおばちゃんに悪態をつくのと同じパターンで、リリーに心を許しているから、つい悪い冗談が口をついて出てしまったのだろう。寅さんのことを『心優しきエゴイスト』と喝破した人がいるが、この大人げない嗜虐性は、子供が親に悪態をつくのに、よく似ている。
 
ただ、初めてこの映画を観たときは、あのシーンの後、リリーの鞄を持って追っかけて行ったパパが、リリーのマネージャーになって、この先いっしょにどさ回りを続けていくもんだと思っていたら、案外あっさり、パパは家に戻ってしまった。たぶんリリーと何日間かは行動を共にしてたのだが、寅さんがいなくなると、リリーとの1対1の関係では、気詰まりな場面も出てきて、そのうち、リリーが稼いだギャラから、「もう家に帰ってあげなさい」と、帰りの汽車賃を渡されたんだろう。堅気のパパには、旅から旅のその日暮らしは、やはり、しんどかっのだろう。
 
この映画で、「私みたいな女でよかったら」と、寅さんと結婚してもいいと言うリリーの言葉を、寅さんが冗談にしてしまい、傷心のリリーが、「とらや」を出て行ってから、「寅次郎ハイビスカスの花」で、ふたりが再会するまでに、5年の歳月が必要だった。我々のような傍観者も、首を長くして、再会の時が巡り来るのを待っていたものだ。
 
寅さん映画の中では、第5作「望郷編」、第6作「純情編」、第8作「寅次郎 恋歌」、第10作「寅次郎 夢枕」、第11作「寅次郎 忘れな草」、第17作「寅次郎 夕焼け小焼け」、第25作「寅次郎 ハイビスカスの花」、第27作 「浪花の恋の寅次郎」といったところがお気に入りだ。どちらかというと、マドンナが、良家のお嬢さんや後家さんではなく、寅さんサイドの水商売とか、浮き草稼業の場合の方が、ご贔屓だ。
 
寅さんこと、渥美清が亡くなったのは1996年8月4日、享年68、もう19年になるのか・・・。そういえば、リリー4部作の最後というか、シリーズ最終作というか、結局遺作になった「寅次郎 紅の花」で阪神大震災の1年後の神戸を訪れていたな。愛猫が我が家に貰われて来たのも、震災の翌年だった。いやはや「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり」だ。合掌
 
男はつらいよ 寅次郎相合い傘 (1975) 日本
 
監督 山田洋次 脚本 山田洋次 朝間義隆

「蝉しぐれ」は凛とした映像ではあった。しかし・・・。

凛とした映像ではあった。しかし、原作と映画のどちらがよいかと問われたら、(問われていないが)原作に軍配を挙げる。やはりこの小説を2時間に凝縮するのはいささか厳しい。「ロード・オブ・ザ・リング」みたいに、少年期、青年前期、青年後期+エピローグの3部作にしらよかった。もう一つ、道場の兄弟子、矢田の妻女、淑江のエピソードをエピソード1として4話完結でどうか、と言われても、返事に困るだろうが・・・。
 
藤沢周平ものでは、山田洋次監督の「武士の一分」は観ていないが、同監督の「たそがれ清兵衛」と黒土三男監督が脚本を担当したTV版「蝉しぐれ」は観た。TV版「蝉しぐれ」は「たそがれ清兵衛」よりはよかった。TV版「蝉しぐれ」は、第一話の冒頭から中年になった文四郎(助左衛門を名乗っていたが)が出てくる構成に、いささかのとまどいがあったが、映画の方は、原作に忠実に川で顔を洗っている文四郎と洗濯しているおふくちゃんとの中指の思い出エピソードから始まっていて、こちらの方がやはりしっくりきた。
 
映画の子供時代のおふくの役をやっていた佐津川愛美は、目元ぱっちりの顔立ちなので、ちょっと感クルーわだった。映画公開当時16歳だった彼女も今や26歳、イマイチパッとしない。TV版はあえて子役を使わず、内野聖陽水野真紀が、老け役の反対の若作り役で押し通したが、年齢的な不自然さは否めなかった。文四郎15才、おふくちゃん12才くらいの年端もいかない子供の設定だから、いくらなんでも、無理。というか、これでは下級武士の小せがれと同じ境遇の小娘の淡い恋心は、微塵も感じられなかった。ここのところも、映画版はまだしも実年齢に近いティーンエイジャーを起用したのは正解。近頃のガキはませているけれど、大人になっても、精神年齢は幼いままだ。昔の日本人は現代の日本人に比べて精神年齢がかなり高いから、今時の20才は昔の14・5才といい勝負だろう。
 
しかし、まあ例の荷車で父親の遺骸を運ぶ坂道のシーンは、ぐっときた。原作では、確か友だちもいっしょに荷車を押してくれていたと思たのだが(うろ覚え)。ここは少年少女のふたりだけにした方が、映画的演出としては優れていた。江戸屋敷に奉公に出されるおふくちゃんが、暇乞いに来たのに、文くん(といったら中国からきた留学生みただが)と会えなくて、とぼとぼと浜辺を歩くシーンは、画面が現代的すぎて変。「男女七人夏物語」じゃないんだから、ビーチには行かないんじゃないか。江戸時代の武家娘は、たぶん土手にしゃがみ込んで呆然と遠くの山でも見つめるのじゃなかろうか。ま、それは措いておいて、蝉しぐれは、少年の成長物語なんだから、できれば「北の国から」みたいに、このふたりが実年齢で青年になるまでをじっくり腰を据えて撮って欲しかった。
 
何故かといえば、市川染五郎の青年文四郎が、いまいちしっくり来なかった。梨園の御曹司だけあって、上品すぎるというか、えらい二枚目だ。端正な役者顔では、田舎藩の下級武士の感じが出せない。いくら文四郎が結構颯爽としたいい男であったとしても、決して都会の若者ではない。しかも、市川染五郎は、映画出演の時点で、30歳を過ぎていただろうに、デカプリオといっしょで年齢不詳なところがある。若いんだか、歳くってんだか、判然としない。こんなにつるっとした顔立ちの文四郎は、我らが文四郎では断じてない。まだしも内野文四郎の方が、泥くさい田舎の若侍の感じがした。
 
成人したお福さまは、木村佳乃がやっていたが、これもTV版の水野真紀の方が、田舎もんぽくてベターだった。木村佳乃は、TVの時代劇で中流の武家娘役をしていたのを観て、如何にも武家娘らしいきりっとした芯の固さがあって、ぴったしだと感心たことがあったから、この映画でも期待していたのだが、「あか抜けはりましたなぁ」の感が否めない。江戸の水で顔を洗ったら、あか抜けするといっても、ちょっとやり杉!
 
その他のキャスティングについては、ふかわはよかった。今田はいまいち。江戸に学問修行に行くほどのカシコに見えなかった。緒方拳の父子の別れのシーンは圧巻。大滝秀治はいつでも大滝秀治。矢田のご新造、淑江さん役の原沙知絵ちゃんは、結構贔屓にしてる女優さんだが、もう少し内に秘めた情炎の陰りが欲しかった。ここは、やはり高島礼子かな・・・。
 
原作では、未亡人となった淑江さんのエピソードが出てくるが、この映画ではほんのちょい役でしかなかった。小倉久寛のお父ちゃんと根本りつ子のお母ちゃんから、おふくちゃんが生まれるとは思わレンジャー。
 
さすがに、映画はじっくりロケできるから、自然描写はすこぶるよい。音楽もよい。欅屋敷での立ち回りは、ちょっと噴飯もの。あのラストシーンでは、世を忍ぶ逢瀬のように感じられなかった。藤沢周平は小説を読むに限る。
 
蝉しぐれ (2005) 日本
監督・脚本:黒土三男

ヤン・シュヴァンクマイエルの『アリス』は、子供向きとは言い難いが、真夏の夜の悪夢くらいの感じかな。

ヤン・シュヴァンクマイエルは、1934年チェコプラハ生まれだから、もう80過ぎの爺さんだ。この映画の製作当時で50代前半。3年がかりで作ったそうだから、まさに力業と言える。いや、頭が下がる。それにしても凄いイマジネーションの持ち主だ。冒頭の水面に石を投げるシーンをはじめ、紅茶茶碗にも石投げ入れていたし、何回も石を投げる(積み木を投げたりもするし、ガラスが割れるシーンも結構あった)シーンがでてくるのだが、あれってなにかの象徴?
 
こういう映画は、深読みしだすと霧のない摩周湖だが、あの涙の海(というか水たまり)で溺れそうになるシーンで、唐突に『滂沱(ぼうだ)として涙が流れる』という小難しい言い回しを思い出した。涙の海はさぞかししょっぱいことだろう。さらに、ねずみがトランク引っぱって泳いできて、女の子の頭の上でたき火し始めるシーンでは、落語の『頭山(あたまやま)』を思い出した。そう言えば、『頭山』をネタにしたアニメーションを山村浩二いう日本人アニメ作家がつくって、第75回アカデミー賞短編アニメーション部門にノミネートされたのを始め、そこら中のフェスティバルで賞もらっていた。
 
シュールリアリズムが一斉を風靡したのは第一次大戦後のヨーロッパでだが、20世紀の後半になっても、21世紀になっても、東欧の小国とジャパンのアニメ映画の中で、連綿とその末裔のような作品が作り続けられテいるという訳だ。いや、シュールリアリズムの手法は、TVコマーシャルや広告ポスターでは、いまだにしょっちゅう試みられている。
 
この映画、エロ・グロ・ナンセンス度のうちの、エロ度はほとんどない。マニアックな映画なんだが、ロリコン方面の人たちにはあまり受けないだろう。ひたすら気色悪い攻撃で、観客をげんなりさせるグロ度も大したことはない。ナンセンス度は相当高いが、元々『不思議の国のアリス』そのものが、ナンセンス文学の極みだから、妥当なナンセンス度だ。ただ、マッドハターとマーチヘアは出てくるが、大のご贔屓のチシャ猫が出てこなかった。それとハンプティ・ダンプティドードーも出てこないのはちょっとさみしい。
 
ホワイトラビットというキャラは、この映画の助演男優賞をやってもいいくらいの名演なんだが、あのおなかの裂け目からおが屑まみれの懐中時計を取り出して舐めるシーンが何度もでてくるところをみると、ヤンさん、よっぽどあのシーンが気に入ってたのだろう。それと、靴下がイモムシ(というか、もう少し奇怪な宇宙生物みたいなガーデンイール風)になるのは、アホらしゅて、やがて、おもしろかった。
 
ヨーロッパのアンティーク風の文物は、総じて魅力的なんだが、この映画でも、三角定規やら、コンパスやら、鍵やら、骨格標本やら、剥製やら、ガラス瓶やら、インク壺やら、なにやら、カニやらが、イカにも、タコにも、古色蒼然の雰囲気を醸しだしていた。
 
ま、子供向きとは言い難いが、ファンタジー映画好きにとっては、夢でうなされるるほどの、えげつなさはないので、真夏の夜の悪夢くらいの感じかな。『悦楽共犯者』という完璧に大人向けの作品もあるそうだが、今度はそっちを観てみようかと、恐いもの見たさで、触手を蠢かしている今日この頃だ。
 
アリス ALICE (1988) スイス、西ドイツ、イギリス  
監督・脚本・デザイン:ヤン・シュヴァンクマイエル
アニメーション:ベドジフ・ガラセル 
出演:リスティーナ・コホウトヴァー

『アギーレ・神の怒り』は、ひとりずつ間引かれていく感じだ。それが妙に恐いし、気色悪い。

クラウス・キンスキーの鬼気迫る目の演技と、歌舞伎の「見得」みたいに一瞬ストップモーション気味に動きが止まってから次の動作に移る、間(ま)の演技が凄かった。といっても、大見得を切った後に『よ、キンさん!大統領!!』のかけ声が掛かるワケではないのだが・・・。それにしても、大した眼光だ。こんな親爺に睨まれたら震え上がりそうだ。
 
キンスキーの役は、アマゾン奥地黄金郷発見スペイン調査隊の分遣隊(本隊を率いてたのが、あのインカを滅亡に追いやったフランシス・ピサロだ)の副官なんだが、分遣隊長であるフィーゴ似の貴族の親爺は、愛人まで連れて来ていた。キンさんの方も15歳になる娘を同道しているのだが、何故この当時の探検隊は、愛人やら娘まで連れて、こんな辺鄙な秘境に出っ張っていたのか?とかすかな疑念が後頭部に浮かんだが、考えてみると、スペインから荒れ狂う大西洋の海原を渡って、地球の裏側の南アメリカくんだりまで行こうかという時点で、相当な覚悟がいるだろうし、死なばもろとも、最愛の家族を国に置いて単身赴任するには、帰って来れる保証があまりにも少なさすぎたということか。(オツムがおかしくなってからだが、キンさん、自分の娘と結婚して夢の王国を作るんじゃ、と言っていた)ついて行った女の人もエライな。あの蒸し暑さの中で、コルセットをつけて飾り襟つきのドレスまで着ているのだから・・・。
 
この映画、初っ端から、高所恐怖症気味の私のような者にとっては、縮み上がり気味になっていたのだが、断崖絶壁の道を馬やらラバやら豚やらニワトリやら大砲やら車輪やら、輿(愛人やら娘やらが乗っている)を運びながら歩くのだが、茶色く濁った激流のアマゾン川の川岸に着いた所で、先に進めなくなってしまって、とりあえず分遣隊として40人を選抜して、筏で下って、近くにエルドラドがあるのかないのか調べて来いということになった。10日で帰って来れなかったら、死んだものと見なして引き上げると言われて出発したのだから、ほとんど成功の望みはなきに等しい、NASAスペースシャトルの打ち上げとは、比べものにならないくらい無謀な計画だった。
 
ただ、この調査隊は、あくまでスペイン国王に任命された正式な探検隊なので、隊長交代の手続きなんかも随分厳格だった。しかし、目玉のキンさんは、決して自分が隊長になろうとはしない。その割りに、やりたい放題するのだが。この親爺は、あくまで行けるところまで突き進み、エルドラドで、黄金に埋もれてウハウハ人生派だ。もう引き返そう派の隊長をピストルで撃ち殺すし、川の渦に巻き込まれて立ち往生してしまった筏に向けて大砲をぶっ放すし、ちょっとでも足手まといになる奴は、あの世行きの片道切符だ。
 
話は、ある種淡々と進んでいくのだが、隊員は次々殺されたり、病死したり、餓死したりしていく。地元民のインディオも全面戦争を仕掛けてくる風でもない。ひとりずつ間引かれていく感じだ。それが妙に恐いし、気色悪い。エルドラド発見に取り憑かれた主人公の飽くなき野望の果てに、エルドラドがウエルカムと言って待ちかまえているとは到底思えないのだが、撃ちてし止まんの突撃精神は、一向にへこたれない。ここらが、われわれ凡人と何事かをなし遂げてやろうという野心満々の男との、決定的なモチベーションの差かも知れない。
 
後年、コッポラ監督の『地獄の黙示録』は、この映画を参考にしたんじゃないか?という映画評が結構あるが、観ている最中に、何度か似ていると思った。『地獄の黙示録』の方は、なんと言っても、ジャングルの中の大がかりなセットやら、爆撃シーンやらがてんこ盛りだったが、こちらはアマゾン川の上を流れ下る筏の上だけが舞台だ。ただ、音もなく矢やら吹き矢やらが飛んできて、ぐさっと刺さったり、歩いてる途中にひょいと吊り上げられてしまったり、気が狂いそうなほど蒸し暑かったり、カラダのあらゆる部分を虫に刺されそうだったり、アマゾンとメコンデルタの違いはあっても、ジャングルの中での、死と狂気の隣り合わせという設定は一緒だった。
 
1時間半の短さなんだが、もう少し長かった方がよかったように思う。唐突にいろんなエピソードが始まるから、前のシーンとの繋がりが分かりにくかった。だんだん狂気に嵌まっていく主人公のまわりで、為すすべもなく運命に身を委ねる娘や愛人やほかの隊員なんかの生き死にも、もう少し丁寧に描いてやった方が、もっといい映画になったんじゃないか?それにしても、この映画、きれいな女優も出ているのだが、色気は皆無だった。
 
アギーレ・神の怒り Aguirre der Zorn Gottes (1972) 西ドイツ  
出演:クラウス・キンスキー、ヘレナ・ロホ、ルイ・グエッラ

『父の祈りを』は、なんたる話だ。イギリスに正義はないのか?

冤罪を扱った映画とは露知らずに観始めたものだから、最初はてっきりバカっぽい若造の無鉄砲話かと思った。それにしては、舞台がアイルランドで、IRAのテロがどうとか言っている。こりゃあ、硬派の映画みたいだと思っていると、主人公は、「おら、ロンドンさ行くだ」と言って、船に乗って、船上で幼なじみのもうひとりの若い衆と一緒になって、ロンドンのヒッピーのたまり場みたいなところに転がり込んでしまった。
 
やはり、無鉄砲フリーセックスものかと思い直したら、今度は金を盗んで、ど派手な格好をして故郷に錦を飾るじゃないか。この映画、一体どこへ行くんだと思っていたら、ロンドンの爆弾テロ犯の濡れ衣を着せられて逮捕だ。しかも、脅迫やら暴力やらの汚い手を使われて、自白を強要されて、さらに、息子の逮捕を心配した父親やら叔母さんやらその息子さんらが集まって、善後策を考えているところを警察に踏み込まれて、爆弾製造の後方部隊にされてしまった。ヒッピー仲間をやっていた男女2名も、北アイルランド出身だというだけで、仲間にされてしまった。
 
なんたる話だ。無茶苦茶じゃないか。犯人のでっち上げは、イギリスのテロリスト防止法の暴走というか、爆弾テロの犠牲者の遺族への免罪符として、スケープゴートが必要だったからや。イギリスに正義はないのか?ホントひどい話だ。それにしても、自白調書だけで有罪にできるのだろうか?
 
◆◆ネタバレ注意◆◆ お話変わって、イギリスの刑務所は、凶悪犯と一般犯がごちゃ混ぜに収容されているみたいで、かなり自由に行き来できるみたいだ。この若者の場合も、ムショのなかでタバコを吸っているし、あろうことか、LSDでラリッていた。いくら親子だといっても、父親と息子が同じ房に収監されるというのも驚きだった。 
 
アメリカの刑務所ほど人種間のいざこざは起きないようだが、ここにホンマもののIRAのテロリストが捕まって、収監されてきた頃から、雲行きが怪しくなってきた。こいつは自分が真犯人やと供述しとていたのに、当局はそれを握りつぶした。すったもんだの末(ちょっとはしょりすぎかも)に、敏腕女性弁護士の機転もあって、冤罪を晴らし、無罪を勝ちとるのだが、逮捕から15年も経っていた。◆解除◆
 
主人公の愚かな若者役のダニエル・デイ・ルイスは、8年後『ギャング・オブ・ニューヨーク』では、アイルランド系移民グループに対立するオランダ系移民グループのブッチャー(肉屋)役で無茶していた。
 
このバカ息子の父親役をやっていたビート・ポスルスウェイトは、なかなか渋~い名演技だった。こんな親爺、日本にもいそうだ。敬虔なクリスチャンかどうかは別にして・・・。
 
北アイルランド問題は、プロテスタントカトリックの宗教問題と、イギリスとアイルランドの政治問題と、ケルト系とアングロサクソン系の民族問題が三つどもえ、がんじがらめ、まんじ固めになっていたらしい。
 
アイルランドにおいては、北部は英国にとどまり続けるべきだと言っているユニオニスト(合同主義者)=ロイヤリスト(王室主義者)VS 北部と南部を合わせた32州の独立を主張しているナショナリスト国家主義者)=リパブリカン(とにかく王政に反対の共和主義者)という構造らしい。両陣営がお互いにテロ攻撃を仕掛けたから、復讐が復讐を生み、泥沼化してしまった。さらに、IRAの過激派がロンドンで爆弾テロ攻撃を始めたのが、この映画の頃だった。
 
原題の『IN THE NAME OF THE FATHER』の和訳は、常識的には『父の名の下に』だろ。『父の祈りを』という邦題にしたら、なんだか宗教ものみたいじゃないか?この映画は裁判ものではないのか?
 
父の祈りを In The Name of The Father (1993) イギリス、アメリカ  

『はなればなれに』は、遅くとも20代半ばあたりまでに観ておくべきだった。

この映画、ゴダールの長編7作目らしいが、『勝手にしやがれ』の続編にして、『気狂いピエロ』のプロローグとゴダール自身が位置づけていたらしい。2001年日本初公開だったというから、36年振りに日の目を見たワケだ。何とも長い間お蔵入りしとったんだな。ま、日本未公開の映画は沢山あるから、映画配給会社に見る目がなかっただけなのかも知れない。
 
「若気の至り」と評した映画評があった。私もそう思う。この映画は、遅くとも20代半ばあたりまでに観ておくべきだ。私のような初老の紳士(?)が観ても、いまいち感情移入できなかった。若い衆の馬鹿騒ぎに眉を顰めるといった感じ。出来ることなら、肌に張りのある紅顔の美少年の頃に観たかった。近頃では水気も脂っ気も(髪の毛も)抜けてしまって、カサカサ状態だ。「感性ゼロだ」とこきおろされるようになってしまった。寄る年波には勝てないということだろう。嗚呼無情・・・。 
 
ちょっと筋を紹介すると、女ひとり(叔母さんちに住んでいて、英語学校に通っているパリジェンヌ)と男2人、ひとりはアルチュール(ランボー?)という名前で、ブ男系だが天性の女たらしみたい(女たらしの才能のある男は、何気なくカラダに触るのがうまい)で、もうひとりの元ガンバの宮本似の二枚目は、フランツ(カフカ?)という名前で、こちらはどちらかというとコケにされている、との三角関係がベースで、その3人が無茶をする映画だ。以上。
 
監督も無茶をする。確かに、ゴダールにとって、アンナ・カリーナは、創造の女神だった。この映画もアンナ・カリーナがいなかったら、出来なかっただろう。『気狂いピエロ』のアンナ・カリーナも、あどけなさが見え隠れするシーンがあったが、この映画のアンナ・カリーナは、あどけないどころではない。ゴダールのイマジネーションの中で創りあげた、完全なる「若い女」だった。少女でもなければ、ましてロリータでもない。子供とは違う未成熟さ、奔放さ、しなやかさ、浮遊感、フェロモン、まさに「若い女」なんだ。ふ〜、ちょっと力説しすぎた。「キスは舌を絡ませてやるのよ」と言って、舌を出してキスされるのを待ちかまえていたシーンの演出なんか、あざとすぎるだろ。
 
朝から晩まで、生身の女をやっているのは、いろいろ大変だろうと、世の女性たちに同情するものだが、映画のなかで、自由奔放に弾けまくる若い女というのは、肉の重みがない分、軽やかだ。実際アンナちゃんは、かなり華奢な体つきだが。男を振り回すだけ振り回して、大抵破滅の淵に引きずり込むのだが、男の方でも、それを望んでいるとしか思えない。現代の日本で、こういうファム・ファタール系というか、小悪魔系の「若い女」はどこにいるのかと愚考するに、ひょっとして、キャバクラとかにいるのかも知れない。残念ながら、一度仕事の打ち合わせで、開店前のキャバクラに行ったことがあるだけで、営業時間中に行ったことがないもので、キャバ嬢の実態はよく知らないのだが・・・。キャバ嬢どころか、夜の蝶科の全種に疎い。
 
しかし、アンナ・カリーナの顔は、何とも奇妙だ。決してノーブルではない。どちらかというとファニーフェイス系だ。目は大きいけれど、いっつもアンニュイ感が漂っているから、爽やかな印象はない。あの目で凝視められるのと、若い頃の、さとう珠緒ちゃんとどっちがゾクっと来るか?若い頃ならアンナ・カリーナだったろうが、初老ともなると、タマちゃんかな。もう存在自体が不如意なので「アンニュイなところがいい」なんて言っている場合じゃない。
 
◆◆ネタバレ注意◆◆カフェにいる3人が「1分間黙ってよ」と言ったら、突然音楽も周りの音もな~んにも音がしないようになって、無音の状態が続くという演出も、映画館で観ていたらかなりインパクトがあっただろう。30秒も経ったら、お尻がむずむずしてくるんじゃないか?それと、ルーブル美術館の中を手を繋いで走り回るというシーンも、アホが真似しないか心配だ。って、実際に走り回ったら、守衛さんにつまみ出されるだろうが・・・。
 
もうひとつ、印象的なシーンがカフェの席替えだ。ふたりが横並びに座れる席とその向かいの席をぐるぐるポジションチェンジする。イカにも、ひとりの女を挟んで、ふたりの男が有利なポジションを狙っているという関係性を雄弁に語っていた。それから、これから叔母さんちに強盗に行こうかという前に、アンナ・カリーナの履いていたストッキングを脱がせて頭から被るシーンも、ストッキング・フェチの男が観たら、もう、うらやましすぎて、発狂するんじゃなかろうか・・・。◆解除◆
 
最後に、有名(?)なカフェのダンスシーンだが、そんなに感心しなかった。あれだったら、『暗殺の森』のダンスシーンの方が格段に凄かったと思う。アンナ・カリーナの台詞で印象的だったのは、「結婚とは、自分の胸と脚を捧げること」。う~ん、さもありなん。
 
はなればなれに BANDE A PART (1964) フランス  
出演:アンナ・カリーナ、サミー・フレイ、クロード・ブラッスール

『ミツバチのささやき』は、ま、映像的には名作の誉れ高いだけのことはあって、上品な絵画という感じだ。

究極の淡々狸映画なんだが、純文学映画というか、光と影が彩なす泰西名画的映画というか、あやしうこそものくるほしける空蝉の世のはかなさを、それこそ、ぼそぼそささやくように語っていた。ま、映像的には名作の誉れ高いだけのことはあって、上品な絵画という感じだ。それにしても、唐突な終わり方だった。
 
ビクトル・エリセという監督は、たぶんデリカシーが服を着て歩いてい
るような親爺なんだろう。近寄りがたいというか、誰も寄せ付けないというか、めちゃめちゃ気むずかしいんだろうなと思った。
 
このところ子供が主役の映画をたて続けに4本も観た。『ブリキの太鼓』と『マイ・ドッグ・スキップ』と『ペーパームーン』とこの映画だ。ま、『マイ・ドッグ・スキップ』は犬が主役とも言えるが・・・。
 
ブリキの太鼓』の主役の男の子(名前は確かはオスカルだった)は、不気味、キモイの極みだったが、この映画の主役のアナ・トレントは、西洋人形みたいなつぶらな瞳で、歩いているだけで絵本の挿し絵になるというか、めちゃめちゃ愛くるしい。不思議の国のアリスを具現化したようなかわいらしさだった。 ま、ロリコンには堪えられないだろう。
 
ただ、この映画のように子供を主人公にした映画は、主人公に感情移入しようと思っても、相手が小さすぎて感情移入しにくいとこがある。そういう意味では、若い衆をそそのかしたりしない分、罪がない映画と言える。これが14〜5歳くらいの女の子が主役だったら、ややこしいことになってたいただろう。
 
◆◆ネタバレ注意◆◆ 小学校の低学年、1年生か2年生くらいの感じだ。この年頃の子供が世界をどう認識しているのか?死についての具体的イメージがあるのか?児童心理学の専門家じゃないからよく分からないのだが、アナちゃんは、村に巡回してきた『フランケンシュタイン』の映画のなかで、フランケンシュタインによって殺されてしまった少女のことが、気になって仕方がなかったみたいだ。
 
寝る前に、ベッドのなかで、お姉ちゃんに「なんで殺されたん?」と聞くのだが、お姉ちゃんの方も、いい加減な返事をするものだから、すっかり村はずれの廃屋に実際にフランケンシュタインがいると思いこんでしまったのが、この映画の発端だ。
 
それと、毒キノコの踏みつぶしエピソードやら、お姉ちゃんの死んだ真似エピソードやら、列車飛び降り男(この男、線路が直線のところで飛び降りたものだから、脚を怪我してしまった。普通は、カーブの手前でスピード落としたところで、飛び降りるんじゃないか?)銃殺事件やら、なんだかんだで、どんどん死そのものに近づいて行く。
 
ところで、書斎で書き物をしたまま眠りこけてしもたらしい父親に、母親がそっと毛布かなにかを掛けるというのは麗しい夫婦愛みたいでいいのだが、その後、親父さんの顔の下になっていたノートを引っぱり出したり、掛けていたメガネを外したりしたら、大抵目が醒めるんじゃないか。あのシーンも、親父さん、死んだ真似をしてたのだろうか?◆解除◆
 
それにしても、ひとつ一つのシーンは、監督が「次はこんなシーンを撮る」と言って、唯我独尊的に撮っていたのだろうが、周りのスタッフは、今何故このシーンを撮っているのか、ほとんど理解してなかっただろう。例えば、猫がドアから入ってくるシーンなんか、筋とあまり関係がないのだが、あのシーンを撮るだけで、100回は撮り直したんじゃなかろうか・・・。土門拳が、法隆寺室生寺か、あるいは、どこかの寺の写真を撮るために、一日中カメラの前に座って光待ちしていて、いつまで経ってもシャッター切らなかったのとよく似ている。 
 
英語版タイトルは『Spirit Of The Beehive』だから『ミツバチの巣の精霊』というのか?奇妙な題だ?それよりも、この映画の内容では『ミツバチのささやき』の方が合っているんじゃないかと思わせるような、邦題の希有な成功例だった。 
 
それにしても、映画好き文学青少年の深読みにぴったりの映画だ。きっと、そこら中にその手の深読み映画評が出回ってるいることだろうから、こちとらはあっさり味にしておこう。
 
ミツバチのささやき El Espiritu de la Colmena (1973)スペイン  
出演:アナ・トレント、イサベル・テリェリア