読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

『羅生門』は。若き京マチ子嬢を観賞するだけでも、一見の価値ありだ。

今朝は早くに目が覚めたので、映画でも見て時間をつぶそうかと思い、iTunesの映画のサイトにアクセスして、何かいいのはないかと物色していたら、黒澤明監督の「羅生門」のデジタル完全版というが、レンタルできるということだった。
 
早速ダウンロードしのだが、何しろ65年も前の映画なんだが、全くと言っていいほど、古くさい感じはしなかった。いや、大したものだ。この映画は、どうも今回が初見のようだった。所々見たことがあるような、ないようなシーンがあるのだが、予告編とか、何かの折に、部分的に見ていたのだろうか?
 
ところで、黒澤明という監督は、リアリズムとは無縁のお方だというのが、よくわかった。極端なことを言えば、あの映画は舞台劇だったということだ。舞台では、どんなに血なまぐさいシーンでも、実際に血糊べったりという訳にはいかない。そんなことをしなくても、観客と舞台の間に、「芝居でっせ、お客さん」というお約束があるから、観ている方もさほど違和感を感じないで済むのだ。
 
ところが、今時の映画は、仮想現実というか、あらゆるシーンにリアリティを持たせよーとする。宇宙の果てであれ、太古の昔であれ、未来であれ、目の前にあるがごとくに再現するというのが、今時の映画だ、
 
確かに、この映画でも、クレーンで俯瞰から荒れ果てた羅生門の全景を写したりしているから、映画的ではあるのだが、本質的には舞台劇そのものだった。
 
すなわち、役者の台詞は標準語だし、衣装はそれなりに汚れていたり、華麗だったり、たとえ暴漢に手込めにされた後だといっても、女優さんの胸もとはキチンと合わされていたり、化粧もそれなり乱れていないし、無精髭のはずなのに、きれいに整えられていたり、役者の肉体も、遠目には判らないものの、近くに寄ったら、肉体労働者の荒ぶる筋肉ではなくて、ひ弱なそれだったり。ま、何とも上品な映画だった。
 
この映画だったら、当時のPTAのおばさんも、女学生が映画館で観ても問題なしと言っただろう、いや、やはり、こういう女の本質を描いたような映画は、良妻賢母教育には、少々マズイのじゃないかという理屈で、観たらダメダメと決めたかも・・・。
 
待てよ。ここはやはり、黒澤監督といったら、芸術なんだから、観たらダメとは言えなかったかも・・・。それとも、そもそも文部省推薦の映画しか観たらダメなのか?
 
それにしても、京マチ子は、見事に平安の女性(にょしょう)を演じていた。撮影当時は多分25歳くらいだろうが、妖艶さと初々しさと荒々しい情念とをないまぜにした、これぞ女優!の演技だった。いずれにしても、若き京マチ子嬢を観賞するだけでも、一見の価値あり。
 
それにしても、◆◆ネタバレ注意◆◆ラストの捨て子のシーンは、要らなかったんじゃないか?あのシーンが必要だったとしたら、やはり、1950年という終戦後5年目の映画だったからかも知れない。◆解除◆
 
付録、昭和の大スター、元女優の原節子(はら・せつこ、本名・会田 昌江=あいだ・まさえ)さんが9月5日、肺炎のため神奈川県内の病院で死去したことが25日分かった(Yahooニュース)」と、今朝の新聞が一斉に報じています。「昭和は遠くなりにけり」の感をいっそう強くする今朝の寒さです。「東京物語」より「麦秋」の原節子が好きです。といっても去年死んだ私の母親とそれほど歳は違わないのですが・・・。
 
羅生門 (1950) 日本
監督:黒澤明 脚本:黒澤明 橋本忍
出演: 三船敏郎 森雅之 京マチ子 志村喬 千秋実 上田吉二郎

『アリス・イン・ワンダーランド』は、「こんなものかな」の想定内の範囲を超えていなかった。

19才のアリス役のミア・ワシコウスカという新人の女優さんだが、あまりかわいらしくない。なんというか、ナチュラルな感じはする娘ではあるが、もう少しアイドルっぽい子でも、よかったんじゃなかろうか?ま、あまりロリータ系に振ったら、それもどうかと思うが・・・。西欧人の感覚で観たら、結構おぼこい感じなのか?
 
我ら日本男子が西洋婦人を観賞するときには、ベビーフェイスをもって、美人とするきらいがあるんじゃなかろうか・・・?モンローしかり、バルドーしかり。ソフィア・ローレンなんかは、迫力がありすぎて、たじたじになる感じだ。って、人選が古いけれど・・・。
 
しかし、アリスが「EAT ME クッキー」を食べて、でかくなってからは、割とチャーミングな感じがした。何故何故どうして?実は、でかい女の子が好みだったりして・・・。
 
それにしても、「EAT ME クッキー」を食べても、服までは大きくならないだろう。だったら、びりびりに裂けるんじゃないか?とつっこむのも、大人げないな。ディスニーだし・・・。
 
この映画は、ジョニー・デップの映画なんだろうが、ま、怪優振りはいつも通りだった。しかし、CGてんこ盛りの映画の中では、少々の怪演も影が薄い。まして、マッドハターという役は、はなからマッドなんだから、狂おしく振舞えば振舞うほど、観客としては、冷静に演技を観てしまう。ジョニーデップの踊りというのも、カズダンスと同じで、ちょいとキモい。
 
逆に、赤の女王のヘレナ・ボナム=カーターの方は、本物のエキセントリックな名演だった。ちょいと朝青龍似だったけれど・・・。
 
赤の女王と白の女王の確執というのも、いまいち説明不足だった。事の発端は、赤の姉の方が、白の妹に何か気に入らないことを言われたか、何かされたらしい。頭がでかいことを笑われでもしたのだったら、怒るのも仕方がない。赤の女王の取り巻き連中が、偽りの肉体変造をしているのだが、これはこれで、結構深い意味があった。
 
監督のティム・バートンは、半端じゃないオタクなんだから、もっと、とんでもないワンダーランドにしたかったのじゃないだろうか?この映画のワンダーランドは、ビジュアル的にも、「こんなものかな」の想定内の範囲を超えていなかった。これに較べたら「千と千尋」の方が、まだしもかも知れない・・・。
 
貶してばかりではいけないので、ひとつくらいは、褒めておこうと思ったが、見あたらない。夢落ちの典型的エンディング手法の蝶々も、かなり興醒めだった。
 
「マリス・イン・ワンダーランド」というイギリス映画があるらしい。こっちは、現代物で、やはり大人になったアリス(マリスかも?)が、不条理な世界に引きずり込まれて、わやくちゃにされるというお話みたいだ。このタイトル、カタカナのアとマが似ていることに引っかけた邦題だと思っていたのだが、英語でも「MALICE IN WONDERLAND」と書いてあった。こっちの方が、面白そうだ。
 
出演:ミア・ワシコウスカジョニー・デップ、ヘレナ・ボナム=カーター、アン・ハサウェイ

『パッチギ!!』は、けなすのも、批評するのも難しい。

この映画、けなすのも、批評するのも難しい。若かりし頃の映画だ。とはいえ、この映画のような派手な喧嘩はしたことはないのだが・・・。京都の九条と大阪の南区(今はもうない)では、周囲の事情も環境も思い切り違う。
 
確かサンケイホールだったと思うが、フォーク・クルセダースのラストコンサートに行った。あの300枚限定だった(?)自費出版レコードも、友達の兄貴が持っていたので、聴いたことがある。「イムジン河」は、当時からよく知っている歌だった。
 
はっきり言って、あの頃のことは、あまり思い出したくない。「僕は二十歳だった。これが人生の最も美しい年齢などと誰にも言わせない」と言ったのは、「アデン・アラビア」のポール・ニザンだが、18歳の頃の方が、もっと美しくなかった。その後の人生が美しいかと言ったら、汚濁塗れの半世紀だったのだが・・・。
 
しかし、この映画が、あの頃のことをまざまざと思い出させるかというと、そうでもない。あまりにも別次元の世界だった。私のまわりでは、結構仲良くしていたんじゃないだろうか?高校には、在日中国人(とは言わない、華僑という)とか、在日朝鮮人(か韓国人かも分らなかった)とかが、結構いたのだが、普通に付合っていたし、結構いい奴だったりした。
 
同級生にひとり、めちゃめちゃ腕っ節の強い奴がいて、ケッコー仲がよかったのだが、ある時、そいつが急にぶち切れ、学校のトイレで喧嘩が始まって、傍観者だった私には、何が原因だったのかも分からなかったのだが、それが人間の暴力が持つ、吐き気がするような気持ち悪さを目の当たりにした最初だった。
 
彼の国の女子と深い仲になったこともなかったから、「結婚したら、朝鮮人になれるか?」みたいなややこしい事態もなかった。というか、南北問題だとか、強制連行だとか、民族差別だとかを腹を割って話す機会がほとんどなかった。知らんぷりを装っていただけなのかも知れない。ただ、鶴橋の国際マーケットには、足を踏み入れられなかった。あそこはよその国だった。
 
井筒監督も、この映画で描けることと描けないことの境界線を見極めるのが難しかったのだろうと思う。やんちゃなガキ同士のけんかに限定しないで、もっと南北問題とか差別問題とかに踏み込んだら、やはり、いろいろと・・・。
 
そこで、沢尻エリカ嬢だけれど、かわいらしいのは確かだが、チョン・ガンジャ役の真木よう子の方が、私的には気に入った。先日、沢尻エリカが「ヨルタモリ」にゲストで出ていたが、宮沢りえの方が、数倍チャーミングだった。
 
パッチギ! (2005) 日本
監督:井筒和幸 脚本:井筒和幸 羽原大介
 

『ALWAYS 三丁目の夕日』は、我ら団塊世代には、懐かしい風景ではなかった。

東京タワーが出来たのは、昭和33年(1958年)10月14日だそうだ。私が9才の砌(みぎりと読む)だから、この映画の小学生の子供とほぼ同世代だ。今も大阪近郊に住んでいるから、故郷というものが事実上ないのだが、この当時の大阪の街並に郷愁を感じるかと問われたら、「別に」と答えておこう。
 
この映画は、昭和30年代(1955~1964年)に集団就職で上京した人とか、地方出身で大学入学のために上京した人とか、東京都生まれ東京都育ちだけど、今の東京と違って、その頃はめちゃめちゃ辺鄙なところだった山手線の外側地域の出身の人とか、そういう環境で、ほぼ半世紀の間、東京を生き抜いてきた団塊の前の、現在70才以上の人らにとっては、懐かしさとともに、切なさがこみ上げてくる映画だろう。
 
私的には、別に何も感じなかった。たぶん、まだ物心があまりついていなかったせいもあるように思われる。ノスタルジーを感じようと無理をすれば、感じられないこともないけれど、といった感じだ。
 
昭和30年代といえば、何もかもがセピア色だったみたいだが、その当時は、新建材を使ったプレハブ住宅が建ち始めていたし、国産自動車もミゼットをはじめ、スバル360やら、トヨタのクラウンやら、コロナやら、日産のダットサンやら、日野コンテッサやら、いろいろ走っていた。それから、ごっついアメ車とかビートルとかヒルマンとかの外車も結構多かった。それらはぴかぴかだった。ミゼットですら、子供の目には、煤けたボロ車の印象はなかった。
 
テレビが我が家に来た日のことは覚えているし、その前に、近所の小金持ちの家でテレビ見せてもらったのも覚えている。皇太子のご成婚パレードは、親戚の叔母さんちに姉と一緒に見に行った。しかし、街頭テレビで力道山を見たことはない。氷を入れる冷蔵庫もあったし、小学校には、二宮金次郎の銅像もあった。家の前の道路は、さすがに地道ではなかったが、横町(大阪ではよこちょうとは言わない、よこまちと言うって思い込んでいたが、法善寺横丁というのがあるな。あれって、何?)は地道だった。磁石を引きずっているおじさんを見たこともある。便所は当然ポットンだったし、手水鉢がぶらさがっていた。バキュームカーが時々来て、長いホースで糞尿を吸い取っていたのも覚えている。
 
しかし、我が家が水洗トイレに変わったのは、比較的早かったように思う。たぶん、小学校の高学年の頃には、住んでいた一帯の下水道が整備されたみたいだ。だから、よく空き地に土管が置いてあった。あの土管は下水道用の土管だったのだろう。
 
谷町筋に地下鉄(東梅田~天王寺)が通ったのは、昭和43年(1968年)だそうだが、その10年くらい前から、延々と工事をしていた。高校生の頃は、梅田方面に行くには、市電か市バスで心斎橋まで行って、地下鉄御堂筋線に乗るか、逆に玉造まで行って、そこから環状線に乗るかだった。ということは、キタは我が行動範囲の外にあって、どちらかと言うと、心斎橋が主たるフィールドになっていた。
 
だから、百貨店といえば、大丸かそごうだった。甲子園球場に初めて行ったのは、高校生のころだった。京都に行くには、天満橋から京阪電車、奈良に行くには、上六から近鉄電車、和歌山方面に行くことがなかったんで、難波始発の南海電車には乗ったことがなかった。大阪は私鉄がそこいら中に走っていたので、国鉄に乗ることは滅多になかった。環状線に初めて乗ったのも、高校生の頃かも知れない。大阪城の裏手一帯の焼け跡は荒涼とした風景だった。阪急梅田駅の高架工事が始まったのは、昭和41年(1966年)だそうだが、小学生の頃はまだ地上駅だった。
 
何が言いたいのか、自分でもよく分からないのだが、昭和30年代より、昭和40年代(1965~1974年)の方が、個人的には、圧倒的にインパクトが強かったということだ。世界同時に何かが起こるというような気になっていた。というか、未だにその頃の自分から完全に脱皮しきれていないような気がしないこともないこともないこともない。あるんか?
 
前置きが長くなった(って、これ前置きか?)が、この映画で「北の国から」の純が、売れない三文文士役をやっていたが、どうも違和感があった。役になりきれてないというのか?それから、薬師丸ひろ子の母親役もしかり。小雪の流れ者の飲み屋の女将役も、戦前生まれの日本人(団塊の親世代)という感じがしかった。こういう映画は、小道具や背景で、いくら昔を再現していても、人間が昔の日本人の風貌を再現できていないとダメだ。戦前生まれの日本人は、顔つきからして違う。堤真一三浦友和もたいまさこには、戦前の日本人の雰囲気があったが・・・。
 
ALWAYS 三丁目の夕日 (2006) 日本
監督:山崎貴 脚本:山崎貴 古沢良太

「ノーカントリー」はノーコン映画だった。

2007年度の第80回アカデミー賞のアの作品賞他を受賞した映画だというので観たのだが、結論から言うと、観ない方がよかったかも?
 
何しろ、追跡劇なんだが、追っかける方が、神出鬼没過ぎる。あんなにうまく失踪者が見つかるとは到底思えない。しかも、この映画は、1980年代の時代設定だから、今から30年も前の話だ。まだまだ、IT技術も今みたいに進んでいない。グーグルマップストリートビューもなかった頃だ。それと、麻薬マフィアから大金を盗んだ男が、のこのこと現場に戻ってくるとも思えない。それに、大体保安官補に殺人鬼のシガーがおとなしく捕まって、パトカーで護送されているとこからしておかしい。こんな凶悪無比の男だったら、捕まる前に、保安官補を殺して、さっさと逃げているに違いない。
 
しかも、見るからに気色悪い男を一人だけベンチに座らせて、しかも前手錠で(アメリカは後ろ手錠が一般的なんじゃなかったか?)背中を向けて電話している図なんて、あり得ないぜ!セニュール。
 
このあり得な状況設定のオンパレからして、この映画のとんでもなさが分かるというものだ。得体の知れないもの、正体不明なもの、こういう理解しがたいものに直面すると、人間は目をそらそうとするみたいや。何度か目をそらしてしまった。
 
この殺人鬼シガーに比べたら、ハンニバル・レクターの方が理解できそうだ。大体、このコーエン兄弟という監督は、「ファーゴ」でも、あきれかえったんだが、この映画でも、何を観客に伝えたいのかよく分からない。世の中には、理解出来ない変な奴がいるから気をつけろと言うのか、それとも、死に神のような殺人マシンに追いかけられた日には、諦めざるを得ないというのか?
 
これでもかというくらい殺人のシーンを見せつけて、何がおもろい?大体あんなおかしなエアガンを持ってうろうろしていたら、それだけで職質されるだろ。身内の警察官(いや保安官補だった)が署内で殺られたのだったら、もう少し本格的な捜査体勢で望むだろ。こういう世間常識を無視したストーリー展開というのが、どうにも納得がいかなかった。
 
◆◆ネタバレ注意◆◆シガー殺しを命じられたもう一人の殺し屋が、金の入ったバッグを簡単に見つけるのも、あり得ないぜ。セニュニータ。こいつもあっさり殺されてしまったけれど。◆解◆大体、シガー役の役者が、あの日本を代表する建築家のA藤T夫さんに似てた(髪型とか目とか)んで、イメージ払拭するのに苦労した。
 
日本では変な宇宙人役で、缶コーヒーのTVコマーシャルに出てるトミー・リー・ジョーンズがやっていた田舎の保安官も、一人でうろちょろしているばかりで、どう考えても、犯人を捕まえられるとは思えなかった。
 
ところで、あんな大怪我をして走ったりできないだろうと。「ラスベガスをやっつけろ」みたいなナンセンス映画として観る分には、多少のご都合主義に目をつぶってもいいが、ここまでノーコン映画だと、つきあい切れない。監督がもっともらしい映画を作っている気になってるみたいなのが、はなはだ気に入らない今日この頃だ。
 
ノーカントリー No Country for Old Men (2007)アメリカ

「THE有頂天ホテル」は、誰が有頂天になってたんだ?

絶頂期の三谷幸喜脚本&監督の「THE有頂天ホテル」をたまたま観た。結構笑いに包まれたいいお話っぽかった。往年のグランドホテルものを下敷きにしているだけあって、出てくる役者は多士済々。もちろん主役の役所広司はうまい役者だった。他に役にはまっていたと感じたのは、伊東四朗篠原涼子オダギリジョー戸田恵子原田美枝子浅野和之といったところ。逆に、いまいちミスキャストじゃないかと思ったのは、松たか子生瀬勝久唐沢寿明、YOU。まずまずは、佐藤浩市西田敏行麻生久美子といっっところか・・・(えらそうに)。
 
西田敏行は出番が少なかったので、持ち味を出し切れなかった感がある。YOUは、声量がなさ過ぎ、ジャズシンガー役はキツい。怪演していたのは伊東四朗。ま、得な役柄ではあったかも。しかし、この手の話として、登場人物がそれぞれ訳ありすぎというのもどうか?役所と原田、松と佐藤、香取と麻生の3組も訳ありというのは、やり過ぎではないでしょうか・・・?
 
それでも、まずまず正統派喜劇やった。しかし、三谷監督もいいお話の要素をかなぐり捨てた方が、喜劇としてもっとおもしろくなると思う。
 
◆◆ネタバレ注意◆◆ラストのカウントダウンパーティーは、もっと豪華絢爛にやって欲しかった。あの程度のパーティのために、みんなが必死のパッチで頑張っていたとしたら、何となく拍子抜けする・・・。◆解除◆やはり、有頂天になっていたのは、監督一人みたいだ。
 
THE 有頂天ホテル(2006)日本
監督・脚本:三谷幸喜

バレエ「くるみ割り人形」の吉田都嬢はパーフェクトだった。

イギリスのバーミンガムロイヤルバレエシアターの公演をDVD化したものだから、当然映画ではない。という訳で、今回は番外編。たいしたストーリーもないが、それでも、基本無言劇だから、登場人物の役柄はちょとばかし分かりにくい。
 
金持ちのお屋敷でクリスマスパーティーをやっているらしいというのは、なんとなく分かった。女の子(決して12・3才には見えない。無理を承知で若めに言って17、8才)がどこぞの親爺からお人形さんを貰って(何故くるみ割り人形なんかをクリスマスプレゼントに選んだのかの疑問はさておき)、それを弟(こちらは子供がやっていた)と取り合いをして、壊してしまったから、気になって、夜中に様子を見に来たら、(この設定も、やや無理がある)ネズミの人攫いグループ(このお話の時代設定は、20世紀初頭くらいだろうから、ロンドンの高級住宅街でもチュー太郎が夜になると、そこら中をうろちょろしていたのは、十分想像できる)に拉致されそうになって、それをくるみ割り人形とおもちゃの兵隊さんたちが撃退して、夢の島(じゃなくて、夢の国)に連れて行ってもらえるということらしかったが、いまいち飲み込めなかった。後で解説読んでやっと分かったって訳だ。しかし、このお話自体は、日本で言ったら、亀を助けて竜宮城へ行ったウラシマタローみたいなもんで、イギリス人なら結構知っているのかも知れない。 
 
不遜にも、第1幕は別になくてもいいんじゃないかと思った。これって、結局第2幕への伏線というか、お膳立てなので、幕前にあの子が出てきて、ざっと経緯を話して、すぐに2幕目を始めた方がいい(なんと偉そうに)。しかし、よくよく考えてみると、一部が劇で、2部がバラエティの2部構成とも言えるので、この構成自体は、どさ回りの大衆演劇もロイヤルバレエ団も大して変わらない、劇場での公演ものの不文律みたいなものなのかも知れない。たとえ一流アーティストの公演でも、高い金を払わされて、前座もなしで、30分で「はい、お終い」だったら、「金返せ!」と怒る客もいるだろう。 
 
この世に生を享けて60有余年、バレエを劇場で観たことはない。「トーク・トゥ・ハー」の看護士みたいに。バレエ教室を覗き見したこともない。バレリーナとつき合ったこともないし、バレエ好きの知り合いもいない。そんな、おおよそバレエと無縁のままで死んでゆくはずだったのが、この「くるみ割り人形」と巡り会ってしまったのも、運命のいたずらと言うべきだろう。「あいみての のちのこころにくらぶれば むかしはものをおもわざりけり」と言ったところか?ひょっとして、バレエ(あくまで鑑賞)にはまってしまったら、どうしよう・・・。
 
何故「くるみ割り人形」なのかというと、問題は吉田都嬢だ。以前にNHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組に出ていたことがあった。あの番組を結構贔屓にしていた。特に、国際的に活躍している日本人というのに弱い。もちろんイチローや青木、本田、香川、錦織なんかのスポーツ選手もそうだが、この吉田都嬢のように、ヨーロッパ伝統芸術の牙城のようなバーミンガム・ロイヤル・バレエ団に殴り込んで(殴り込んだ訳ではないだろうが)、実力を認められてプリンシパルに抜擢され、大喝采を浴びたのだから、大したものだ。
 
イギリスで、日本人がバレエ団のプリンシパルに抜擢されるというのは、日本で、お能のシテ役にイギリス人のおにいさんが抜擢されたようなものか?バレエのレッスンは、世界中の子供がやっているが、お能の稽古は日本人でもほとんどやっていない。ま、柔道の無差別級チャンピオンに、オランダ人のヘーシンクがなったようなものか。例えが古いが・・・。
 
他にも、世界で活躍する日本人としては、MITで日本人として初の教授になったコンピューター研究者、イタリアの名門カロッェリア、ピニンファリーナのデザイン部門最高責任者になったデザイナー。安藤さんやら隈さんやらSANAAのお二人やらの建築家の面々と、世界に伍して戦ってる日本人が結構いるが、問題はこの吉田さんだ。名前を聞いたことも、顔を見たことも、もちろん踊りを観たこともなかった。まったくの門外漢だった。門から500マイルは離れている。とおの昔に故郷は捨てた身だ。これほどまでに、自分の中で問題視しなければならない理由はどこにもないはずだった。にもかかわらず、DVDを買ってしまった。しかも、それが「くるみ割り人形」だった。
 
当然チャイコフスキーも門外漢だ。「白鳥の湖」も「眠れる森の美女」もまともに聴いたことはない。それでも、「くるみ割り人形」の2幕目の何曲かは、耳になじみがあった。特に「ロシアの踊り」と「中国の踊り」と「花のワルツ」はよく知っている。ま、「ロシアの踊り」はいいとして、「中国の踊り」は想定外だった。あの曲のどこが中国なんだ。中国といえば、胡弓に銅鑼だろ。「花のワルツ」の方も、まるで合いの手のように「ちゃららった」と聞こえるメロディーが、何度も何度も繰り返されるのが、妙に耳にこびりついて、笑いの壷に入ってしまった。
 
そんな話はどうでもいい。問題はバレエだ。一糸乱れぬ群舞というと、キムさんのマスゲームを思い出すが、(ま、「一糸乱れぬ」より、「一糸纏わぬ」の方が好きなんだが)第2幕冒頭の群舞は、エレガントさが桁違いに違う。世界のトップクラスのバレエ団だけあって、群舞のダンサーもレベルが高い。決してその他大勢の端役と違う。足をあげる角度もジャンプのタイミングも宝塚並にぴたっと合う。この群舞は圧巻だった。次に続く数人のグループでの踊りも、それぞれに趣があってよかったのだが、ま。ラスベガスのショーもこんな感じかなという印象だった。
 
こんな不遜な私でも、最後の最後、結びの一番で、吉田都嬢が登場するグラン・パ・ド・ドゥでは、ついつい膝をぐいと前にのり出してしまって、イスから転げ落ちそうになった。それでも固唾をのんで画面を見つめ続けた。いやはや非の打ち所がない、完全無欠、パーフェクト。フィギュアスケートで言ったら、技術点も構成点もオール10点満点。4回転サルコウを完璧に跳んで最後までノーミスで滑り切ったみたいなもんだ。
 
吉田都嬢のバレエは、正確無比にしてエレガント。西洋人ほどは手足が長くないが、指先、つま先の端まで、神経が行き届いている。総身になんとかの逆だ。歌舞伎の見得と一緒で、ぴたっと決まるところでは、ぴたっと決まって、決してふらつかない。何よりも、体重がないのじゃないかと思うほど、身のこなしが軽やかだ。がさつな音がしない。
 
息を呑むとは、こういうことだろう。生身の人間が目の前で、何の補助装置もなしに、独楽みたいにくるくるまわったり、ジャンプしたり、持ち上げたり、降ろしたりする。それも音楽にぴったり合わして。ほとんどアイスダンスとか、フィギュアスケートのペアとかだ。ま、フィギュアスケートの方が、まねをしたのだろうが・・・。バレエといっても、アスリートでないとできないのだと思う。オリンピックの種目に入れてもいいのじゃないか?
 
確かに、香港映画お得意のワイヤーアクションも、スパイダーマンのCGも、生身の人間が舞台の上でライブでやっているのとは違う。ここがデジタルの限界というべきか、芸のすごいところというべきか。バレエダンサーを芸人呼ばわりしたら、怒られるかもしれないが、志ん生の噺も芸、能も狂言も歌舞伎も芸、バレエも芸、人に見せて楽しませる仕事は、すべからく芸だと思う。術は忍者にまかしておこうと。
 
くるみ割り人形 全2幕 (1994) 英国バーミンガム・ロイヤル・バレエ 
出演:吉田都  イレク・ムハメドフ他