『たそがれ清兵衛』は、『たそがれ清兵衛』というタイトル自体をやめるべきだった。

さて今回は『たそがれ清兵衛』だ。山田洋次監督初の時代劇ということで期待したが、結論から言うと「なんじゃこりゃ?」だった。まず、最後まで「がんす言葉」になじめなかったのがひとつでがんす。藤沢周平の原作を先に読んでいたのがまずかったのか、原作との違いにばかりに目がいって、映画自体を楽しめなかった。(そういえば『グリーンマイル』もスティーヴン・キングの原作を読んでいたので、トム・ハンクスにちょっと「カンクル〜ワ」感があったが、この作品ほどではない)原作のある映画は、多かれ少なかれ読んだ時の主人公のイメージと役者との違いが気になるものだが、しかし、今回は設定そのものが思いっきり違うので、「カンクル~ワ」の連続だった。 主役の真田広之は下級武士の感じをよく出していたとは思うけれど・・・。
 
もともと文庫本で36ページの短編だから、どうやって2時間の映画に引き延ばすのかと訝っていたが、別の2作品の設定も取り込んであり、時代背景も幕末にしたらしく、こんなに違うストーリーにするのだったら、そもそも『たそがれ清兵衛』というタイトルそのものをやめた方がよかったんじゃなかろうかと思うほどだった。
 
原作のある映画で、原作との比較を云々することは不毛の論議と言われるが、元来藤沢作品は、武家物と市井の庶民物の2タイプがあるけれど、庶民物がどちらかというと慎ましい、けなげ、切ない、やるせないという話が多いのに比べ、武家物は武士ならではの、ある種潔い生き様を描く話が多い。この映画の場合は、清兵衛は潔いというより慎ましい、切ない側に偏った描かれ方で、侍とはいうものの生活感覚はまったく庶民になっていた。映画の中で百姓になってもいいなんて台詞があったが、厳格な身分社会では、武士は骨がらみに武士なんだから、決してそんな風に清兵衛が考えるとは思えない。しかも、浪人ではなく、ちゃんと仕官しているのだから。
 
いや、待てよ。ひょっとして、無理矢理時代を武家の支配体制が疲弊してきた幕末に変えたのは、この辺りの台詞にリアリティを持たせたかったからかも。。。(小細工するな!)山田洋次は庶民感覚を表現させたら名人級だから、庶民の映画を撮る分にはいいのだが、下級武士といっても武士は武士。しかも郷士足軽ではなく、浪人でもない歴とした藩士なんだから、庶民の生き様とは自ずと違うはずだ。事実、小説の清兵衛は病気の妻との二人暮らしで、病身の妻の世話のためにアフター5のつきあいを一切断って「5時まで男」に徹してはいたが、これはこれでかなりきつい生活だけれど、なぜか屹然としたところがあって共感できた。
 
ところが、◆◆ネタバレ注意◆◆映画の清兵衛は、5年前に妻を労咳で亡くしていて、幼い娘が二人と認知症の老母までいる。シチュエーションとしては、よりやりきれない度が高い。妻の葬式代にお金が掛かって、腰の物も売り飛ばしてしまっているとか。その上、娘二人に教育をつけさせるにも金が要る(なんか、山田洋次が無理に娘に教育をつけさせてるという気がしたのは、果たして私だけか?)から、つきあい酒なんか飲めないという設定は現代のサラリーマンに重ね合わせているのかも知れないが、なんとも惨めったらしい。幕末の田舎侍のつましい暮らしを描くことで、浮ついた世相に警鐘を鳴らしたかったのか?と言っても、この映画も公開された2002年頃は、日本は喪われた20年のど真ん中だった。自民党のダメさがじわじわ表面化してきて、民主党への政権交代の機運は出てきたころだ。いずれにしても、誤解を承知でゆーと、山田洋次のいけていないところ(なんとなく社会派)がでた映画だった。◆解除◆
 
以前にNHKで放送していた『蝉しぐれ』も、主人公の役者の年齢がやや高かったので、「カンクル~ワ」だった(主人公以外にも、江戸に行って学問を積んだという主人公の幼なじみ役の役者が、ただへなへなしているだけでちっともインテリジェンスが感じられなくてがっかりした)が、まだしもこの映画とは違って、基本の筋は原作に準じていた。この映画で山田洋次が描きたかったのは、藩命とあらば個人的事情は脇に置いて従わなければならないという武家社会の非情さへの弾劾だったのか。
 
あるいは、◆◆ネタバレ注意◆◆討たれる方の侍が「長い浪々の生活の末にやっと仕官が叶い、仕えていた上司のために懸命に働いたのに、上司が失脚したら自分まで詰め腹を切らなければならないのか」とぼやく宮仕えの悲哀だったのか。しかし、この男はドメスティックバイオレンス男の飲み友達とかで、最初にでてきたときからどう見ても敵役だった。でも、労咳で死んだという娘の骨まで囓らせたのはやりすぎと違うか・・・。昔は土葬だろ。
 
さらに、この男が相当の剣の遣い手という設定になっていた。立ち回りのシーンを映画のハイライトに据えるために、あえて屋内にしたのかも知れないが、リアリティにこだわるのだったら、剣の腕前に自信のある侍が、決闘の相手が小刀の遣い手であると知っていれば、長い刀が明らかに不利になる屋内での斬り合いを避け、すばやく屋外へ走り出るはずだと思う)◆解除◆
 
映画としてのつまらなさの最大の原因は、ストーリーに展開の妙がないこと。次はどうなるという期待感がまるで湧かない。前半で淡々と描かれる下級武士のつましい日常生活と後半の凄絶な斬り合いとの間をつなぐ、清兵衛の刺客としての葛藤の部分が充分に描かれていない。(小刀を研ぐシーンがそれと言われても・・・。まだしも『ニキータ』の方がその辺はリアリティがあった)殴り込み(おっと、これはやくざ映画じゃなかった)に向けてのカタルシスといえるものがない。加藤泰だったら、このシーンに一番力が入るところだろうに。
 
◆◆ネタバレ注意◆◆討ち入り前に、幼なじみの出戻り女を呼びつけて、支度を手伝ってもらうなんて、そりゃあんまりだ。話の展開として無理がありすぎ。人を斬りに行こうかというときに、妻でもない女と接していたりしたらダメでしょ。いくら目をつぶっていても、セント・オブ・ウーマンが鼻をくすぐる。それ以外にもこの映画、いいかげんにしろとつっこみたくなるシーンが多かった。エンディングでナレーションもしていた岸恵子が唐突に出てきて、父母の墓に手を合わすシーンなんて、まるで寅さんのエンディングのお正月のシーンとそっくり。◆解除◆
 
清兵衛が風呂にもろくに入っていないらしいのはどういう訳なの。娘が二人もいて、従僕と下女までいるのだから、風呂くらい沸かしてもらえるだろう。家族の者だって風呂に入りたいだろう。綻びだらけのボロを着て登城するというのも、体面をことさら大事にする武家社会であり得るのか?少々呆けがきている母親だって針仕事ぐらいはできるだろう。綻びくらい自分でも縫えるだろう。娘にしても、このくらいの歳になったら、針仕事くらい出来て当たり前と違うのか。月代を剃らずに登城するのもどうかな?田舎侍といえども歴とした藩士なんだから、あれではむさくるしすぎる。娘が寺子屋に出かける時に「行って来ます」と挨拶するのは、ここはやはり「行って参ります」だ。出戻りの年増の宮沢りえが、やもめの清兵衛の家に頻繁に出入りするのも、時代背景を考えるとかなり変。でも、まぁ、りえちゃんは、年相応の雰囲気が出ていて、いい感じだった。しかし、それとこの人物設定とは別問題。
 
最後にもう一度結論を言うと、山田監督、あんたは武士の映画じゃなくて、庶民の映画を撮っていた方がいい。頼むから藤沢周平の世界をきちんと映像化しろよ。たそがれの景色だけじゃなくって・・・。