『戦場のピアニスト』は、当事者目線のカメラワークが秀逸だった。

この映画は、ユダヤポーランド人のピアニストの回想録を元にした映画で、しかも、戦後すぐの時期に書かれたものだから、自身が体験した事実が生々しい記憶として記されていたらしい。
 
絶体絶命の危機に瀕して、生き残る人と死んでしまう人が厳然としてある。実話に基づく話だから、この映画の主人公は運がよかったと言ってしまえばそれまでだが、生死の分かれ目は神様の思し召しとしか言いようがない気もする。
 
◆◆ネタバレ注意◆◆主人公のピアニストは何度も死の淵にまで追いつめられた。ところが、絶体絶命、もうダメだという瞬間、奇跡的に芸が身を助けた。う~ん、あのシーン、普通の映画の1シーンだったら主人公がピアノの鍵盤に指を置いた途端、蓋が無慈悲にも閉じられて、指を骨折させる悪魔のようなナチスSS親衛隊というのが通り相場なんだが、この映画では主人公のピアノの演奏に聞き惚れたナチ スの大尉が結局彼を救ってくれた。この行為を何と解釈すればいいのか?◆解除◆ 
 
個人が個人として行動できるときには、その人の普段の人となりに基づいた行いができるが、個人の思いとか感性が封殺される情況では、非真人間的な悪行をやすやすと行うことができるということか。ナチズムを集団的狂気として片づけてしまうことはできないが、確かに、軍隊は非真人間的環境の最たるものだ。ヒットラーの下で働いていたゲシュタポやSS親衛隊の連中、収容所の所員たちが、自分のしていることに良心の呵責を感じていなかったという事実(?)に対する疑問は、歴史的に繰り返されてきたが、きちんとした答えはない。
 
この間のイスラム国による人質の斬首や、ボコ・ハラムによる少女を使った爆弾テロやら、アルカイダの9.11やら、フランスの風刺漫画新聞社への銃撃やらをやらかしている、イスラム過激派の連中だって、自分のしていることに良心の呵責を感じていないのだろう。
 
なにしろ良心というのはすぐに封印されてしまう。人は至極簡単に非道な行いができる。戦場では相手が敵であるれば殺せる。平時で人が人を殺すには、特別な事情が背後にあるはずだったが、近頃の頻発する兇悪犯罪の報道を見ていると、決して特別な事情があるわけでもなく簡単に人が殺されることが多くなった。戦場でなくとも、相手を仲間と(極言すれば人間と)思わなかったら簡単に殺せるようだ。
 
話が映画から少し逸れてしまった。あの映画で特に優れている点として特筆したいのは、脚本家のロナルド・ハーウッドも言っているが、目撃者としての視点だ。大惨事や凶行をわれわれは常に外部から見ている。内部から見ていた人はほとんど全て死んでしまうのだ。カメラだけが神の視点に立って何でも見通せるというのがこれまでのカメラワークだったが、この映画では、ワルシャワゲットーの蜂起も、ドイツ軍の悪行も、主人公の目からしか描かれていない。つまり、窓からの眺めとして描かれている。確かに生き残った主人公はいつも窓から外を見てたのだから、このカメラワークは必然なのかもしれないが、説得力は大いにあった。 
 
ロマン・ポランスキーという監督は『ローズマリーの赤ちゃん』や『チャイナタウン』のなんかの初期作品をその昔に観たことがあったが、妻だった女優のシャロン・テートがチャールズ・マンソン・ファミリーに惨殺されたこととか、13才の女の子をレイプした罪で未だにアメリカに入国できないことなど、どちらかというとキワモノめいた映画作家の印象が強かった。この映画では、そういうキワモノ感は一切なく、歴史の証人に徹していた。
 
邦題の『戦場のピアニスト』の『戦場の』は余計なように思う。『THE PIANIST』の方がこの映画の本質を端的に表している。彼は兵士として戦場にいたワケではない。ユダヤポーランド市民として、ワルシャワゲットーで暮らし、脱出後は、ゲットーの外のワルシャワ市内で隠れ続けていたのだ。ユダヤ人たちは一方的に弾圧され、収奪され、殺されていった。そこは決してお互いが戦う戦場ではなかった。
 
 
戦場のピアニスト THE PIANIST(2002)ポーランド・フランス
出演:エイドリアン・ブロディトーマス・クレッチマン、フランク・フィンレイ、モーリーン・リップマン、エド・ストッパード