『デッドマン・ウォーキング』は、尼僧の行為にガツンとどやされた感じだった。

無償の行為にぐっと来る方だが、この映画の尼僧の行為はぐっと来るどころか、ガツンとどやされた感じだった。アメリカの裁判制度および死刑囚への対応が、実際にこの映画のようであるのかないのか、詳しくは知らないが、どんな犯罪者にもその犯罪者の側に立つ人がいて、死刑判決が下った後も、処刑の瞬間まで精神的な支えになってくれる人がいることは、やはりいいことなんだろう。
 
死刑囚には会ったこともなければ、知り合いでなった人もいないので、日本の制度がどうなのかもよく知らない。死刑という刑罰がある以上、死刑囚になってしまう人間がいるのは仕方がない。
 
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉はなんとなくウソっぽく聞こえていたが、この映画のように死刑囚の精神的アドバイザーを買って出る人がいて、特赦の嘆願のために動いてくれ、囚人と胸襟を開いて接することで、頑なに閉ざされていた心が少しだけ開かれ、死刑執行を前にして罪を告白し、被害者の家族に謝罪までする気持ちにさせ得る人が実際にいることを知ると、憎しみを超越した無償の愛というものがあるのかもと思えたりもする。
 
しかし、犯罪者を簡単に赦す気にはなれない。個人的な事情を最大限に酌量して、極刑には当たらない殺人事件もあるにはあるが、現状では厳罰主義やむなしの気分だ。確かに、死刑という刑罰は非人間的だ。国家による殺人では、戦争が最も非人間的だ。
 
それでも、何と言っても、最も非人間的なのは、いわゆる「イスラム国」による人質の惨殺シーンをネット上に投稿するという、鬼畜の所業だ。テロの恐怖でしか自分たちの主張を表明できないことの不条理さをわからないのだろうか?
 
また、先日死刑が確定した、秋葉原の無差別殺傷犯や教育大池田小学校の無差別殺傷犯、さらに、この前の老女惨殺事件の名古屋大の女子学生などは、死をもって贖うべきだと思う。行き当たりばったりで人を殺す奴やら、荒っぽい手口で家族を皆殺しにする奴らが増えると、死刑という極刑ですら、殺人の抑止力にはなり得ていないように思われて仕方がない。
 
死刑を廃止すると、快楽殺人やら行きずり殺人などの凶悪犯罪がもっと増える気がする。死をもって償わさなければ被害者の家族が納得できない兇悪犯罪がなくならない限り、死刑もなくせないというのが、私のスタンディング・ポジションだ。凶悪犯罪の容疑者が捕まったニュースを見るたびに、「こんな奴、死刑じゃ」と怒鳴ってしまう自分がコワい。
 
◆◆ネタバレ注意◆◆ 死刑執行のシーンでは、『グリーンマイル』の凄惨なシーンがすぐに思い浮かぶが、この映画のような注射による死刑執行では、立会人にとっては残酷ショーを見せつけられたとゆー感じはしないのかも。こういうのを人道的処置というのか?しかし、注射器のピストンが機械的に押し込まれるのは、それはそれで不気味だった。◆解除◆
 
いずれにしろ、今の今まで生きていた人間の息の根を止めるのだから、死刑は殺人だ。殺人のシーンを描くことは、映画のなかではそれこそ日常茶飯事。手を代え品を代え、あらゆる殺人のシーンが描かれ続けている。
 
猟奇殺人やら、大量殺人やら、無差別殺人やら、計画的殺人やら、通り魔やら、テロリストやら、変態親爺やら、スパイやら、ギャングやら、子ども、年寄り、男、女、ゲイ、医者やら、警察官やら、軍人やら、サーカス芸人やら、郵便配達夫やら、お花のお師匠はんやら、殺人ロボットやら、いくらでも続けられる。つまり誰もが殺人者になる。
 
映画でそのシーンが繰り返し描かれるのは、やはり映画自体がおどろおどろしい見せ物性以外の何ものでもないからのように思われる。派手なドンパチものは、ストレス解消になるかも知れないが、バイオレンスを正当化する映画は考えものだ。
 
ティム・ロビンスは『ショーシャンクの空に』で主人公を演じたうまい役者だが、監督もするんだ。しかも、こんな重いテーマの作品の監督を。主役のスーザン・サランドンティム・ロビンスの嫁さんではないらしいが、公私ともにパートナーというのも「へぇー、そうなんだ」な感じだった。しかし、この二人、2009年12月に別れていた。破局した時に、スーザン・サランドンは63歳でティム・ロビンスは51歳だったというのにも、いささか驚いた。
 
スーザン・サランドンは、いかにも俳優という雰囲気を持っている。演技をすることで社会に何らかのメッセージを伝えるのが俳優という職業だと、彼女なら自信を持って発言しそうだ。
 
もうひとりの主役、ショーン・ペンは、『アイ・アム・サム』での名演でつとに有名だが、この映画の演技もリアリティがあった。犯罪者顔というか、人種差別主義者でヒットラー崇拝者で、ヤクの勢いで若いアベックを殺してしまったプア・ホワイトの半端者の感じがよく出ていた。こういう脳足りンは日本にもいっぱいいそうで、ちょっとコワい。
 
ところで、アメリカの俳優の演技と日本の俳優の演技のどこが根本的に違うのか?たとえば、日本の俳優は素の顔が見えすぎる気がする。笠智衆なんかは素そのもの。『ロード・トゥ・パーディション』のポール・ニューマンもやや素が見え隠れしていたが、一般的にはアメリカの俳優の方が演じるキャラクターへのなりきり度が高いようだ。『男はつらいよ』シリーズの渥美清は、寅さんになりきっていた。あれ位なりきってしまうと、素の顔は完全消滅してしまう。ただ、晩年はちょっとつらそうだったが。。。
 
日本で、この手の映画が作れるだろうか?社会的に宗教者への評価(尊敬の念)が低い日本では、瀬戸内寂聴さんのような尼僧が死刑囚と面接するシーンもなんとなくしっくり来ない。さらに、被害者、加害者双方の家族が問題だ。この映画のような家族のシーンをリアリティーをもって撮れるか?ひたすら愁嘆場になるか、あるいは言葉によるなじり合いの修羅場になるかの、どちらかだろうという気がする。きっと目を背けたくなるような重苦しいシーンの連続だろう。
 
この映画の場合、これほど重いテーマにもかかわらず、アメリカ人の国民性といえばいいのか、俳優のキャラクターなのか、どこかカラッとしていて、そこが救われる。 
 
◆◆ネタバレ注意◆◆ 最後に、尼僧がスラム街のHOPE HOUSEに帰ってきたとき、ドアに子どもたちの『愛しているよ。シスター』のメッセージの貼り紙があった。その場面で、ぐっと来てしまった。 ◆解除◆
 
デッドマン・ウォーキング DEAD MAN WALKING (1995)アメリカ