『バグダッド・カフェ』には、映画の見せ物性が残っていた。

DVDのパッケージには、主人公のジャスミンがモハド砂漠のバグダッド・カフェに舞い降りたとあったが、実際はトランクを引きずって歩いてやって来た。私自身はデブ専というのではないが、ぽっちゃり系の女の人が嫌いではない。もう決して若くはないドイツ人中年女性の場合、太っているのが一般的だろう。
 
イタリア、ドイツのおばさんというと、一方はパスタとピザの食い過ぎ、他方はじゃがバターとソーセージの食い過ぎが原因で、ぽっちゃり以上でっぷり系揃いのイメージがあるが、彼女の場合も典型的なドイツ人のおばさんという感じで、貫禄充分。しかも、あまり世間擦れしていない。その上、無邪気で子ども好き、まさに聖母マリアのように包容力たっぷりの女性だった。 
 
アフリカ系アメリカ人経営者家族とアメリカ先住民の従業員、懐かしや「刑事ブロンク」のジャック・パランス(2006年11月10日、老衰のためカリフォルニア州の自宅で死去。87歳没(合掌)/Wikipedia)扮するけったいな画家、色っぽいタトゥ彫り師という、バグダッド・カフェの面々とジャスミンとの交流は、ストレンジャーへの過剰な警戒から始まって、余計なお節介への拒絶、受容、共感、一体化と、まさに異人種間交流のコミュニケーション理論の通りに運んでいく。なんともハッピーなお話だった。 
 
◆◆ネタバレ注意◆◆「芸は身を助く」とはよく言ったもので、この映画でも、ジャスミンのにわか仕込みの隠し芸が、彼女自身だけでなく、このおんぼろモーテル兼ドライブイン兼ガソリンスタンドの経営をも助けた。一般ピープルというのは無芸な人がほとんどだから、人々はちょっとした芸でも、それを観にわざわざやって来る。物見高いのは江戸っ子だけではないようだ。口コミ効果もあって、バクダッド・カフェは大盛況。これって、セールスプロモーション的にも興味深い現象で、ちんどん屋さんが未だに絶滅しないのも、その端倪すべからざる集客力が評価されているからだろう。
 
ところで、バクダッド・カフェの女主人の旦那は、こっちも夫婦げんかの末に出て行ったのだが、車の中から双眼鏡でずっと監視し続けている。どうもこの人物の役回りがよく分からなかった。さらに、そもそもジャスミンと彼女の旦那は、いくらアメリカをレンタカーで旅行していたにしても、こんな辺鄙なモハド砂漠くんだりまで来たのが不思議だ。また、夫婦げんかの末に、いくら頭に来たからといっても、砂漠のど真ん中に嫁さんをほっぽり出して、そのまま放っておくだろうか?
 
さらに、さらに、ジャスミンが旦那のトランクを間違えて持って来てしまったのは、仕方がないとして、その中にどうして民族衣装のような革の半ズボンが入っていたのか?も一つおまけに、赤ん坊の父親が、まだ子どもっぽいピアノ好きのおにぃちゃんということだったが、母親はどこへ行ったのか?普通、こういう未成年者同士の協議離婚の場合は、母親の方が赤ん坊を引き取るんじゃないか?それとも、赤ん坊を残して嫁さんが雲隠れしたのか・・・。◆解除◆
 
色調がまったくもってアメリカ映画ではない。『パリ、テキサス』もそうだったが、増感したようなぎらつく色調はあんまり好きではない。不自然に傾けたカメラアングルもどうかなと思う。が、観ているうちにさほど気にならないようになってきた。つまり、カメラアングルなんてものは、(小津安には失礼だけど)しょせん監督の思い入れでしかなく、観客は話の中身にしか関心を払わないってことだ。 
 
この映画でもそうだが、女優の裸を見せることが、監督の狙いのひとつのような気がする。ただ、ジャスミンおばさんのぽっちゃりしたおっぱいは、あまりエロティックではなかったが・・・。こういうマイナーっぽい映画ほど、やたら女優の裸を出すというのもどうかな?『至福のとき』のやせっぽち少女の裸にしても、マニアには受けるのだろうが・・・。どうも女優と裸は切り離せないもののようだ。ここにも、映画の見せ物性が残っている。客が入らないと興業的には失敗なんだから、なんとしても見せ場は作っておかないといけないのか・・・。
 
バグダッド・カフェ BAGDAD CAFE (1987)西ドイツ 
監督:パーシー・アドロン
出演:マリアンネ・ゼーゲブレヒトジャック・パランス、C・C・H・ハウンダー