『ボウリング・フォー・コロンバイン』は、アメリカの銃社会の問題を真正面から取り上げた力作だった。

ドキュメンタリー映画監督というと、その昔『世界残酷物語』なんかの一連のいかがわしい実録もの(?)で有名だったヤコペッティくらいしか思い浮かばなかったが、マイケル・ムーアが出てきてからは、すっかりドキュメンタリー映画の大看板になってしまった。
 
このドキュメンタリー映画も、アメリカの銃社会の問題を真正面から取り上げた力作だった。と言っても、結構肩の力が抜けたエンターテイメントの要素も入っていて、観ている方もそんなに肩がこらないところがいい感じだ。監督兼インタビュアーのマイケル・ムーアのゆるい体型も、シリアスなテーマがシリアスになりすぎない緩和剤になっているようだ。アニメやら昔の映画の一コマやらを挿入してある構成も、ただただ事実を突きつけられる手法と違って、息苦しくなくてよい。音楽も効果的だった。いかにもジョーク好きのアメリカ人が作った映画だ。 
 
イン・ザ・ベッドルーム』でも、『フィッシャー・キング』でも、銃社会の悲劇が描かれていたが、アメリカでは、年間1万1千人以上も射殺されているらしい。あっちでズドン、こっちでズドンと、しょっちゅうやっているワケだ。その結果、カッとなって撃ち殺したくらいでは、死刑はおろか終身刑にもならない。 
 
ところで、すぐに銃をぶっ放してしまうアメリカ人のメンタリティはどこから生まれたのか、この映画でも断言はしていないが、アメリカ社会のテンションの高さが原因のひとつだと思う。YES or NOをはっきりさせなけるばならない社会で、善悪どっちにしろ目立たなかったら、いないのと一緒というセロハン恐怖症候群が、自己主張の強い人間ばかり作り出したんじゃないか?自己主張のゆがんだ発露が、この映画のボウズたちの銃ぶっ放し事件だったんとだったんじゃないか?
 
◆◆ネタバレ注意◆◆しかし、銀行の口座開設の景品がライフルだったり、Kマートでも弾丸を売っていたというのも正直驚きだった。後半で、そのKマートに「鉄砲のタマ売るのをやめてくれ」と直談判に行くところは、この映画の山場のひとつだが、ドキュネンタリー映画の制作者の枠に留まらず、現実に直接ある種の影響を及ぼすところが、さすがマイケル・ムーアだね。◆解除◆
 
アメリカの都会は、怖いゾーンと怖くないゾーンが、割とハッキリしているが、郊外や田舎町は全般的に怖いらしい。よそ者に対する警戒心が強いだけでなく、住民同士も顔見知りでない限り、決して心を赦していない気がする。別に怖いにぃさんがうじゃうじゃいるワケだはなく、そこいらにいる一般人が、一皮むけば怖いから、始末が悪い。お互いに怖がってるワケだから、どちらかが一線を越えると過剰防衛になりやすい。ワケの分からない恐怖心にかられて、銃をぶっ放すなんていうのは、大概この手の一般人だと思う。
 
メディアも恐怖心をあおる報道ばかり流しているし、企業も購買欲をあおるだけあおって、持たざることの恐怖心をあおっている。いかにも、情報化社会の弊害がこんなところにも現れているワケだ。 
 
しかし、この映画では、どういう状況で銃撃事件が起きているのかについては語られていなかった。つまり、日本でいう暴力団の抗争、アメリカだったらマフィアの抗争やら、ちんぴら同士のいざこざやらで、ドンパチやって、その世界の連中が撃たれているのか?ギャングが罪のない一般人を撃っているのか?それとも、一般人が隣人をズドンとやっているのか?その割合がどのくらいなのか?後者の割合が、よその国に比して格段に多いとすれば、こりゃ大変なことだ。そこのとこが分からないから、一概に、アメリカの一般人が銃を持っていることと、銃撃事件の死者の数が多いこととの因果関係が、もうひとつハッキリしない。
 
いまさら、アメリカ人に持っている銃を差し出せと言っても、誰も出さないだろうから、禁酒法に倣って、禁タマ法を施行して、アンタッチャブルが密造タマの摘発をやったらどうかと、常々思っていたのだが、この映画の中でも、アフリカ系アメリカ人の芸人が「タマを売らんかったらいいんだ。どうしても売るのだったら、タマにごっつう高い税金を掛けて1発5000ドルくらいにしたらいい。いくら腹の立つ奴がいても、お金を貯めてからしか、銃をぶっ放せない」と言っていた。確かに、そんな高いタマだったら、無闇にぶっ放せないだろう。
 
ボウリング・フォー・コロンバイン(2002)カナダ Bowling for Columbine