『我輩はカモである』は、70年前のギャグが全く古なっていなかった。

この映画を観るまで、マルクス・ブラザースが、元々4人組だったとは知らなかった。これまで観た彼らの映画は、MGMに移籍してからの『マルクスの二丁拳銃』だけだった。あの映画もかなり笑えるスラップスティック・コメディだったが、この映画は、はるかにぶっ飛んでいた。70年前のギャグが、まったく古くなっていない。というか、お笑い芸もそんなに進化してないということか・・・。
 
何しろ全編会話がほとんどど成り立っていない。グルーチョは、相手役の役者の台詞をおちょくりまくり、自分でボケつっこみをかましまくる。あれがネタじゃなくて、アドリブだったとしたら、相手役の役者は、さぞかし芝居しにくかっただろう。
 
しかも、グルーチョのエキセントリックな演技は、ちょっと手がつけられないくらいにエスカレートしていき、観ている方もだんだんつらくなってくる。常人の域をはるかに越えているが、日本人の私にすると、字幕ではなかなか笑えなかった。
 
それに引き換え、ハーポは、サーカスのピエロに通じるあっけらかんとした芸風だ。何でも切りまくるハサミ芸(?)とラッパの話芸(?)さらに、やりすぎるくらいのどたばた芸。いずれをとっても、世界中どこでも、子供にも受けるナンセンスギャグ系だった。
 
チコは、長男だけにうまくまとめ役を演じている。しかし、チコがいないと、グルーチョはどんどん暴走してしまうだろうし、ハーポの芸はとりとめがなくなってしまう。この映画では、イタリア(?)なまりの英語で、すばしっこいスパイ男を演じているが、特にハーポの介添え役として、チコの存在は重要だ。
 
もうひとり、これといった芸がないから、3人の引き立て役に甘んじるしかなかったらしい末っ子のザッポが、この映画を最後にマルクス・ブラザースから抜けたのは正解だったと思う。4人とか5人のバンドでも、グループの中でひとりだけ平均点を下げる奴というのがいたりするものだが、なかなかそいつを外すのは難しいものだ。ビートルズもレコードデビューの前に、ピートというドラマーが外されて、リンゴに交代させられた。外された方も気の毒だとは思うが・・・。。 
 
この映画も観ようによっては反戦映画だが、戦争をやらかす支配階級を茶化すというより、グルーチョは人間の営みすべてを茶化しまくっているといった方が当たっている。存在そのものがアナーキーなんだ。その理由は、グルーチョはそのナンセンスなしゃべりをマシンガンのように放つのが持ち芸だから、対象は一応エスタブリッシュメントにならざるを得ない。ただ、そこに留まらず、女でも男でも誰でも彼でも、まじめそうな顔をしてる奴をことごとくおちょくるのが、グルーチョの真骨頂だからだと思う。 
 
チコやハーポは、グルーチョに比べると、ずっと罪がない。こっちは、体を使ったナンセンスギャグが売りだから、必ずしも徹底的にいたぶる相手はいらない。この映画では、レモネード売りの大男が、おちょくられていたが・・・。
 
しかし、鏡のコントにしろ、帽子のコントにしろ、後の時代のサーカスのピエロ芸やTVのお笑い番組の定番になったコントが、いずれも彼らのオリジナルだったことに、改めて感心した。
 
この映画の原題は、『DUCK SOUP』 だが、スラングで「お安い御用、朝飯前、いいカモ」などの意味があるらしい。邦題は、3番目の「いいカモ」をもじって、『我輩はカモである』としたようだが、誰がカモやねん?映画の内容からすると、「カモっていいかも」くらいが、合ってるんじゃないか・・・?
 
我輩はカモである (1933)アメリカ Duck Soup 
出演:レナード・マルクス(チコ)、ジュリアス・ヘンリー・マルクス(グルーチョ)、アドルフ・マルクス(ハーポ)、ハーバート・マルクス(ゼッポ)