『ゴスフォード・パーク』は、「プロはきちんと先を読んで手を打つ」という発言に感心した。

群衆劇というらしいが、登場人物が大勢出て来て、しかも、誰が主役ということもないから、どいつがどいつや、あいつがそいつか、こいつはだれや?と役者の顔とその役柄を把握するのに手間取った。唯一マギー・スミスだけは、すぐにアイデンティファイ出来た。そりゃあ『ハリポタ』のマクゴナガル先生役で、顔なじみだったもの。 
 
1930年代のイギリスといったら、第1次世界大戦と第2次世界大戦の狭間の時期。日本では昭和ひと桁。英国の貴族社会の栄光も風前のともしび状態になってきた頃だ。しかし、まだまだ貴族はすっかり没落してしまったたワケではない。それなりに優雅に暮らしている。そんなひとりの貴族が開いたキジのハンティング大会が背景。
 
この映画では、お屋敷の階上の世界(貴族のファミリー、ゲストのアメリカ人映画プロデューサー、俳優)の連中と階下の世界(執事、女中頭、料理人、メイド、ゲストの付き人)の連中が、ごちゃまぜに出てきて、飯を食ったり、ハンティングに行ったり、寝たり、起きたりするのを、階下の連中が、世話をしまくり、その途中で、ゴシップやら根も葉もある噂話に花が咲くというわけだ。階上の連中は、階下の連中抜きでは何もできない。1から10まで世話になりっぱなしだ。しかし、日本でも、多分ノー・スコ・リアでも、ちょっと前のイ・ラクでも、特権階級の連中は、一見いいように見えて、その実、結構生きてゆくのが、辛気くさかったりするのだろう。
 
◆◆ネタバレ注意◆◆この映画、一応殺人事件が起きて、刑事も出てくるけれど、犯人探しのミステリー仕立てではない。ただ、何の事件も起こらなかったら、わざわざ映画館に来た客が怒るだろうから、一応 事件が起こるようにしましたという感じ。この被害者、殺される前に、もう死んでたんじゃないかと思った。
 
では、この映画で、監督は何を言いたかったのか?思うに、フランスでは、とうの昔に貴族社会は壊滅させられていたが、イギリスでは、しぶとく現在まで続いている。続くには、続くだけの理由があった。これは受け売りだが、大土地所有者や財をなした資本家などの富裕層を上流階級のメンバーとして取り込んで、貴族や王族の生き残りを図ったことが大きい。
 
さらに、産業革命以降は、中小企業経営者や医者、弁護士などの中産階級までも取り込んで一大保守陣営を築き上げた。残りの大多数は労働者階級で、階級間の交流は基本的にない。しかし、そんなお堅い話は措いておいて、イギリスの貴族社会では、雇い主と使用人の主従関係は、決して一方的ではなく、お互い馬鹿にしたり、無視したりしながらも。利用し合っているところがあったということのようだ。しかし、階級を越えて、個人的に関わるとロクなことがなかった。特に、一盗二婢というくらいで、好き者のご主人様に当たったら、新人メイドは毎晩貞操の危機だ。手込めにされたメイドや女子工場労働者も沢山いたらしい。ノースのよろこび組のおねぇさんたちも、似たようなものか?◆解除◆
 
江戸時代の日本の場合、武士は貴族というワケではないが、それでも、殿様クラスのお手つきになると、娘は側室だし、娘の家族も出世したらしい。しかし、町人はできるだけ武士とは関わり合いにならないようにしていた。分をわきまえているといえば、封建的なニュアンスがあるが、人間というのは、力で押さえつけられている場合を除いて、どんな境遇にいる奴も結構やりたいようにやっているものだ。ロシアの農奴やアメリカの奴隷が気ままにやっていたとは、思わないが・・・。 
 
ただ、どんな職業であっても、「プロはきちんと先を読んで手を打つ」という発言に、「さすがだなぁ」と感心した。登場人物の親子、姉妹関係が、ちょっとご都合主義的だと感じないことがなくもないが、ま、負けとこう。
 
「プロは常に仕事の先を読め」なんて、社員教育マニュアルの第1章に書いてありそうなことだ。確かに、現在は目に見える階級社会ではないが、いったん奉仕する側に回ったら、「お客様は神様」と言って、とことん滅私奉公をさせられる。でも、まぁ、イヤだったら辞めればいいのが、近頃の労働者階級の特権かもしれない。当時は前の雇い主に紹介状を書いて貰わないと、次の職にありつけなかったようだ。
 
この映画は、時間を逆行させたり、あえて分かりにくく話の順番をまぜこぜにしたりはしていないが、話が見えてくるのは、ほとんどエンドロールの直前だった。それまでは、なんとなく昔のイギリス貴族の暮らしぶりのドキュメントフィルムでも観ているつもりで、眺めているしかない。それはそれで、結構観ていられるところが、フェリーニの映画に似ていなくもない。
 
ロバート・アルトマンの作品は、この映画の前には『クッキーフォーチュン』とはるか昔の『M★A★S★H/マッシュ』しか観ていないが、基本的に、この監督は、登場人物を大勢出すのが好きらしい。ひとりの主人公の内面を丁寧に描くのもいいが、こんな風に雑多な登場人物を将棋の駒みたいに動かす映画も結構面白いと思う。外人さんの名前を憶えるのが苦手で、顔はどれも同じに見えるという人には向かないが・・・。
 
ゴスフォード・パーク(2001)アメリカ・イギリス・イタリア・ドイツ Gosford Park