『太陽と月に背いて』どうすんの?

 

ひとりの傍若無人な少年と30前の男との道ならぬ恋の話だが、ふたりの間にあったはずの芸術がすっぽり抜けているので、なんだか妙に生々しいゲイ映画になっていた。 
 
ランボーヴェルレーヌが、たとえ出来ていたとしても、朝から晩まで虎のように愛しまくっていたワケではないだろう。しかし、この監督、興味は同性愛にしかなかったらしく、下半身メインで映画を作ってしまったために、肝心のランボーヴェルレーヌの詩人の部分が見事に欠落してしまっていた。 
 
昔のメロドラマでは、主人公はどんな仕事をしている奴だとつっこみたくなるくらい、あっちこっち飛び回り、色恋沙汰だけをやって生きているような話があったりしたが、この映画も似たようなものだった。当時の社会で、詩人とはどういう在だったのか?詩では飯は食えないだろう。現実のランボーヴェルレーヌが投獄されてからは、いろんな職業について、糊口を凌いでいたらしいが、その辺りのことは全然描かれていない。
 
また、天才詩人ランボーの中にあっただろうと思われるキリスト教的道徳への憎悪や反逆、西洋的なものへの侮蔑などもほとんど表現されていない(陶器の犬の置物を壊したり、十字架を盗んだりする程度のエピソードはあったが)から、ただのサディスティックなガキにしか見えなかった。
 
アルチュール・ランボーの正確な伝記映画を作りたかったワケではないのだろうが、たとえば、ボディビルで鍛えたカラダを鏡に映してうっとりしているところとか、チンピラ役で映画に出て、下手な演技に自己陶酔しているところとか、いささか劇画っぽい制服を着て、はちまきを締めて、自衛隊に殴り込んで自決するところとか、あるいは男との(?)濡れ場ばかり描いて、三島由起夫を描いた映画ですと言われても、困惑するのと同じようなことだ。
 
特に、アフリカに旅立った後のランボーの描き方は実に乱暴だった、あんなに端折って後半生を描くくらいだったら、いっそ描かない方がましだろう。どこへ行っても、セックスしか興味がない男のようだった。われわれ凡人にとっては、詩をあっさり捨てて、アフリカくんだりまで出掛けて行ってしまったランボーの後半生の謎にこそ、興味があるのだが・・・。 
 
芸術家、特に文学者の場合、その生き様を映像で表現するのは、画家や音楽家より難しいようだ。詩であれ、小説であれ、作品を読まないことには何が表現されているのか分からない。そこが絵画や音楽と異なる。しかも、言葉は誰にも読めるワケではない。母国語で、しかも、それなりのバックボーンがないと、ニュアンスまでは感じ取れない。文学は、読まれて初めて、鑑賞に堪える。詩の朗読というのも、あるにはあるが・・・。
 
元々、詩の翻訳はナンセンスなのかも知れない。確かこの映画のエンディングに使われていた「また見つかった、--何が、--永遠が、海と溶け合う太陽が。」(小林秀雄訳)と「 I found it. --What? --Eternally! It's the sun in gold. It's the sea. 」と英語で表記されたものでは趣が異なる。特に「 What? 」なんて、嫌味なアメリカ人に下手な英語を聞き直されたような気になる。では、フランス語の原文だと、どうなのか? はるか昔に「Une saison en enfer」を原書で読もうとして、1ページ目で挫折したトホホな経験を持つ身としては、はなからお手上げだ。 
 
ネットで調べているうちに、「O saisons, o chateaux,」で始まる有名な詩で、中原中也訳の「季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、無疵(むきず)な魂(もの)なぞ何處にあらう?」※( )内は本来はルビだ(1937年刊・野田書房版)の発表される7年も前に、小林秀雄が「季節が流れる、城塞が見える。無傷な魂が何處にある。」(1930年刊・白水社版)と訳していたことが分かった。この詩の冒頭の部分は、如何にも中也らしいセンスを感じて、小林の直訳「あヽ、季節よ、城よ、無疵なこヽろが何處ある。」(1938年刊・岩波文庫版)より中也の意訳が気に入っていたのだが、どうも中也が小林訳を流用したらしかった。ちょっとがっかり。 
 
話をランボーヴェルレーヌに戻すと、彼らは四六時中アブサンを飲んでいた。「緑色の詩神」と呼ばれたこの酒は、今世紀初頭に、製造も販売も禁止された禁断の酒だ。強烈に苦いリキュールで、アルコール濃度は60~75度もあって、大麻と同様の幻覚作用をもっていたらしい。 
 
『バスキア』では、主人公は大麻どころか、もっと強烈な麻薬にも手を出していたが、芸術的インスピレーションと麻薬の関係は、最近でもミュージシャンが大麻や覚醒剤所持で捕まるのを見ても、創造の妙薬と思い込んでしまうものなのか?しかし、明日か明後日かとかいう名前のミュージシャンは、ただただセックスの快楽のために覚醒剤に溺れていたようだが・・・。 
 
ところで、この映画にも、男女の全裸シーンがでてくるのだが、全裸シーンなんかいらないんじゃないかと、いつも思う。男性雑誌のヌードグラビアには、それなりの存在理由があるだろうが、映画のなかで、すっぽんぽんの濡れ場を見せられても、あるいは、この前の『眺めのいい部屋』みたいな3人の男の全裸駆けっこシーンも、観ている方は、恥ずかしくなるだけで、何の得にもならない。いいものを見せてもらったとも思わない。
 
女の人が、男の裸を見て興奮するのかしないのかよく知らないが、いずれにしても、映画監督は、裸を売りにするなとだけは言っておこう。もっと他に表現しなければいけないことがあるだろ。
 
この映画の原題は「Total Eclipse」、つまり「皆既食」だ。皆既日食もあれば皆既月食もあるが、『太陽と月に背いて』という邦題はワケが分からない。誰が太陽と月に背いたのだ?地球が背いたのか?背くとゆいうは、1背を向ける 2逆らう 3離れていくなどの意味があるが、地球が太陽や月から離れていったり、背を向けたりするか?まして、逆らったりはできんだろう!ま、日食と月食に引っかけて、ちょっと背徳的なニュアンスを出したかっただけかも・・・。 
 
おまけ
主演のレオナルド・ディカプリオは1974年生まれだから、この映画の製作時点で20才前後か。昔の日本映画では、十代のアイドル系の俳優や女優を使った、少々きわどい性描写のある映画が結構あった。いわゆる「十代の性典もの」だ。この映画もその類いと言えるが、表現はずっとストレートだった。ランボーの17才から19才までの2年間の話が中心だから、ディカプリオもキャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』のときのような年齢不詳の違和感はなかった。ヴェルレーヌ夫人役の女優は、若い頃の宮沢りえをちょいと不細工にした感じだが、「私、脱いでも凄いんです」だった。(コラ!しっかり見てるやないか!)
 
太陽と月に背いて(1995)イギリス Total Eclipse 
監督:アニェシュカ・ホランド 
出演:レオナルド・ディカプリオデヴィッド・シューリス、ロマーヌ・ポーランジェ