『気狂いピエロ』は、ほとんどロマンチック・ファンタジーの世界だった。

伝説的なゴダールの名作だ。破滅に向かってまっしぐらに突き進みながらも、その逃避行の間中、アンナ・カリーナにコケにされまくるベルモンドは、まさに愚か者の典型であって、支離滅裂な生き様(死に様)がカッコよかった。 
 
20才の頃、遅れてきた映画青年だった私は、どうにかして、この映画を観たいと熱望した。そのころはレンタルビデオもDVDもなかったから、一度見逃すとなかなか観ることが叶わなかった。なんとか四方八方手を尽くして、どこかの名画座だ、ったか大学の学生会館だったか、ものすごくタバコの煙が漂っている中で観たような気がする。 
 
この映画に描かれている刹那的な青春は、遠い海の向こうの新進監督による前衛的な映画以上に、お伽噺めいていて、ほとんどロマンチック・ファンタジーの世界だった。エンディングで、あのダイナマイトの炸裂の後の、アルチュール・ランボーの「また見つかった。何が。永遠が。海と溶け合う太陽だ」の一節の強烈な一撃が、テンプルに撃ち込まれ、熱に浮かされたような朦朧とした意識で、映画館を後にしたものだった。 
 
青春とは愚かなことに夢中になれる季節だ。その愚かさに気がついたときは、もう青春は終わりかけているのだけれど、愚かな私は地上3センチ程浮き上がったまま浮遊していた。平凡な日常からの脱却を願って、愚かにも彷徨い続けた。今となっては、妄想癖のある愚か者だったと思うだけだが・・・。 
 
40年ぶりで再会したベルモンド=フェルディナン=ピエロも、実に愚かな奴だった。こっちが分別くさい爺になったのを差し引いても、この男のやることには、思慮分別というものが足りない。19や20の若造と違うのだ。1933年生まれのベルモンドは、この映画が製作された1965年には、すでに32才にもなっている。子供までいる父親の役柄だ。ハッキリ言って、青年期は終わっている。役者の実年齢と役の年齢は必ずしも一致する必要はないが、少なくともはたち前後の設定ではない。ランボーが19才で詩におさらばしたのとはワケがちがう。「いい歳こいて、アホちゃうのん」と嘲笑されても仕方のない年齢だった。 
 
『イージライダー』のピーター・フォンダは29才、デニス・ホッパー32才、このふたりに比べても、やることがガキっぽすぎる。まだしも、『フォーリング・ダウン』のマイケル・ダグラス(製作当時48才)の親爺がマジギレする方が、納得出来る。全編シナリオなし、即興演出で撮影したといわれているが、やはりこの映画は、監督の思いつきによる茶番劇でしかないのか・・・。 
 
・・・と初めは思ったが、やはりこの映画は、ゴダールアンナ・カリーナへの想いが作らせた映画のような気がしてきた。ゴダールにとって、彼女は掌中の珠、創造の女神のような存在だったのだろう。1930年生まれのゴダールは、当時すでに35才。アンナ・カリーナは25才。もう若くないことを自覚しはじめたゴダールは、私生活でも、若いアンナ・カリーナに翻弄されていたんじゃないだろうか?そこで、我が身をベルモンドに置き換え、徹底的に振り回される映画を作ったのだろう。 
 
この映画では、アンナ・カリーナの存在が衝撃的だ。最初に登場したときは、地味な服装で女、学生のような印象だったが、彼女が演じたマリアンヌこそが、最悪のシナリオライター、諸悪の根元、地獄の水先案内人、ファム・ファタール。古くさい言い方をすれば、男を翻弄し、破滅へ導く根っからの性悪女だった。しかし、この頃のアンナ・カリーナは、恐ろしく魅力的だ。決して凹凸のはげしいボディだはないし、ブロンドでもない。中肉中背で華奢なくらいだ。しかし、強さとしたたかさをもち、邪悪な無邪気さ、八方破れの奔放さをもっていた。このまま歳をとることなどないのだろうと思わせる、永遠の若い女だった。 
 
それにしても、DVDの字幕の翻訳が最悪だった。エンディングの光る海をバックに女性のささやき声で語られる、あのランボーの「地獄の一季節」の一節が、なんと「そして太陽 永遠を それは海 そして太陽」って、なんじゃこりゃ? 
 
このラストシーンのランボーの詩のナレーションが男の声でなく、女(多分アンナ・カリーナ)の声だったということは、アンナ・カリーナアルチュール・ランボーで、ベルモンド=フェルディナン=ピエロ=ゴダールヴェルレーヌという監督の意図があったんじゃないだろうか。これならブルジョア家庭を捨て、アンナ・カリーナとの地獄への道行きを選んだベルモンドの行動も説明できる。 
 
日本におけるランボーの翻訳では、小林秀雄訳が定番のように思っていたが、あの篠沢教授がフランス語の原文に忠実に翻訳したという「地獄での一季節」では、前出の部分は「あった、あった! 何が? 永遠が。 太陽に混ざる 海なのさ。」となっている。教授によると、ランボーは古風な語法やら、教会の神父のような堅苦しい言い回しの中に、ざっくばらんなしゃべり口調や卑語、見せ物小屋の呼び込みの口上なんかを取り混ぜて書いてるのだそうだ。そこで、ネイティブスピーカーなら、普通に読みとるニュアンスをその通り日本語に移し替えた(可能かどうかは別にして)ものが篠沢訳で、小林訳とは大きく趣が異なっている。タイトルからして「地獄での一季節」となっている。私としては、少々困ってしまうのだ。誤訳に基づく深読みだったでは、漫画みたいな話になってしまうのだが、悲壮感漂うマニフェストのような格調高い檄文だと思いこんでいたのが、突然、戯れ言ともとれる独白のようなものを読まされていたんだと言われたら、戸惑ってしまうじゃないのさ。 
 
邦題の『気狂いピエロ』の「気狂い」という言葉は辞書には載っていない。「きぐるい」で変換したら「器具類」しか出てこない。なに故に映画会社は、こんな奇妙な邦題をつけたのか?原題を忠実に翻訳するのがマズイのだったら、お得意の『愚か者、その名はピエロ』とか『地獄のピエロ』とかにした方がましだったんじゃないか。 
 
追記 
[気狂い]は、もともとの読みで広辞苑などには載っているという指摘を受けたので、ちょっと調べてみた。我が本棚に鎮座まします広辞苑は、古い第1版とちょいと古い第2版だったが、それにはもともとの読みに当たる漢字として、[気狂い]は載っていなかった。しかし、会社にあった第4版を見ると、な・な・なんと[気狂い]もあるではないか。ただし、[狂]の右上にアウトラインの三角形を逆さにしたマークがついているが・・・。ここで、よーく考えてみた。
 
広辞苑に限らず国語辞典というのは、読みからそれに当たる漢字を見つけるのはたやすいが、熟語からその読みを調べるのは難しい。[艱難辛苦]を[かんなんしんく]と読めたら、[艱難辛苦]の項にすぐにたどり着けるるワケだ。しかるに、この[気狂い]という言葉を初めて見た、いたいけな若い子が、なんと読むのか調べようとしても、[きぐるい]では載っていない。[狂]の訓読みのところに[くるう]という読みはあっても、[ちがう]とも読むとは、書いていない。ということは、[気狂い]からは、もともとの読みには辿り着けないということだ。ちなみに、広辞苑の第2版第14刷は、1974年12月発行で、第4版第1刷は1991年11月発行だった。この間に言葉狩りに遭ったと、まぁ、そういうことなんじゃないだろうか・・・?
 
気狂いピエロ(1965)フランス PIERROT LE FOU 
出演:ジャン=ポール・ベルモンド、アンナ・カリーナサミュエル・フラー