『座頭市』は、血糊べっとり、血しぶきどばっ、の殺陣だけ映画だった。

この映画、ある意味ではTV向きかも知れない。何しろぶちぶち切り刻んでも、シーンの順番を入れ替えても、大勢に影響がないような大雑把なつくりだ。スリルなし、サスペンスなし、お涙なし、濡れ場なし、ロマンスなし、葛藤なし、緊張感なし、お笑いさほどなし、スペクタクルなし、内容なし、端からそんなもの狙っていないと言われそうだが、感動まるでなし。
 
血糊べっとり、血しぶきどばっ、の殺陣だけ映画だった。これだったら、まだしもワイヤーアクション&カンフーの中国映画の方が華麗な分だけマシかな。ちゃんばら映画の醍醐味は、殺陣のリアリティだといっても、斬られ役のカラダから血が噴き出すだけだったら、おぞましさは大したことない。やはり、耳がちょん切れるとか、腕や脚が宙を飛ぶとか(首はこの時期ちょん切らない方がいいかも)しないとね。しかし、まぁ、ヤクザもの同士の殺し合いで、無辜の民が巻き添えになったりしないのはよかった。 
 
特に、この映画は役者の演技が総じてスカだった。素人のように演技してくれと監督が注文をつけたのかも知れない(エライ好意的解釈)が、役になりきっていない。浪人といえども、武士は武士。侍の妻女は妻女、百姓女は百姓女に見えなければならない。日本の俳優は、ヤクザと兵隊の役は、誰でも出来るらしいから、ヤクザものはさすがにそれらしい。
 
しかし、ヤクザの裏稼業というのも変だが、夜陰に紛れて蠢く夜盗一味ならではの、アンダーグラウンドな存在感がまったくなかった。岸部一徳など相変わらずそこら辺のしがない陰気な中年サラリーマンみたいだった。世を憚って仮の姿に身をやつして生きている日陰ものの感じがしない。座頭市も、へらへらしているだけで、博打好きの渡世人のろくでなし感がない。ただ単に、人をキルのが趣味のとんでもない男という感じだった。
 
親の仇を追い続けているという姉弟も、やさぐれた感じがしない。その辺を歩いているようなおねえちゃんとオカマのおにいちゃんを出してきてどうするの?夜鷹暮らしの垢というのがカラダに染み込んでいなければダメだろう。大体あのふたりは、誰に三味線や踊りを習らったのか?ガダルカナル・タカも、シスターボーイ(今どきこんな言い方はしないか、これはニューハーフのこと)と一緒に風呂に入っているのだったら、もう少し好色そうな顔をするべきだろう。
 
世間の評判も、賛否両論。好悪相半ばしたらしいが、こんな中途半端な映画で、第60回ベネチア国際映画祭「監督賞」を貰ったといっても、うれしくないだろう。北野武が、意図的に中途半端な時代劇映画をつくったというのは、過大評価というか贔屓の引き倒しだろう。西部劇風の時代劇をつくるのだったら、黒澤明を超えるものを作らんかい。時代劇を壊すつもりだったら、勧善懲悪も、義理人情も、武士のストイシズムも、ヤクザの極悪非道も、何もかも壊さんかい。
 
大ラスのタップダンスもやかましいだけで、いまいちだった。
 
座頭市 (2003)日本  
監督:北野 武