『フィッツカラルド』の主役、クラウス・キンスキーは別格だ。ものが違う。

大変なものにぶち当たってしまった。こういう常軌を逸した話は大好きなんだ。それにしても、この映画の主人公の役をやっているクラウス・キンスキーは型破りというか、奇才というか、破天荒というか、奇天レッツのパッパな個性だ。ジャック・ニコルソンをはじめ、ゲーリー・オールドマンやら、テレンス・スタンプやら、ショーン・ペンやら、ジョニー・デップなんかの曲者役者がご贔屓なんだが、この親爺は別格だ。ものが違う。
 
アマゾンの奥地で船(ボートとかカヌーとじゃなくて、ディーゼルエンジンつきの立派な汽船だ)の山越えを敢行しようとするのだが、なんといっても、その無謀としか思えない「先住民多くして船山に登る大作戦」を実物大の船を使って、実写で撮影したウェルナー・ヘルツォークという監督のこだわりも半端じゃない。
 
ちょっと解説しておくと、南米アマゾンの都市マナウス(この街ですらアマゾンの河口から1400キロも上流だ)に「アマゾナス劇場」というオペラハウスがある。この劇場は19世紀末に天然ゴムで巨万の富を得た出稼ぎヨーロッパ人の農園主たちが費用を出して建てたものらしいが、今見てもなかなか凝った内装だ(写真で見ただけだけれど)。ところが、この映画の主人公は、さらに奥地に、もう一軒オペラハウスを建てるのが夢だった。
 
何しろ、このオペラハウスで演っているエンリコ・カルーソーのオペラ観ようと思って、何日も前に家を出て、はるばる駆けつけた(漕ぎつけた)時には、ほとんど終わりかけていたくらいで、ものすごい奥地に住んでいるのだ。そんな地の果てに、オペラハウスを建てるためには、まず先立つものが必要だ。当時は天然ゴムが一攫千金の打ち出の小槌だったのだが、近場の土地はすでに買い占められていた。そこで、アマゾン川のボンゴの瀬(黒部川の上の廊下をスケールアップした感じか)という難所の上流の未開地に目をつけた。ここは天然のゴムの木が沢山生えているらしいが、ボンゴの瀬が邪魔をしていて、せっかく穫ったゴムを船で下流に運ばれないので、誰も手を出してなかった。
 
この男、以前に手がけた鉄道事業が頓挫して破産していて、今は製氷業を細々とやっている。それでも、窮すれば通ずというのか、男の一念山をも越えるというのか、惚れた弱みというのか、売春宿の女主人をやっている愛人から、なけなしの金を借りて、その土地の権利とおんぼろ汽船を買い取って、奥地の開発に着手する。ここからは、ほとんどプロジェクトXの再現フィルムみたいな感じだった。ここから先を読むと、映画を観たような気になる辛、いずれこの映画を観てみたい人は、この先立ち入り禁止。
 
◆◆ネタバレ注意◆◆上流の土地に行くには2つのルートがあった。この男の住んでいる町の少し下流で二股になって川が合流しているのだが、一方の川の上流には誰も寄せつけないボンゴの瀬がある。きっとこの親爺も、その瀬の下まで船で行って、そこから高巻きルート見つけるのだろうと思っていたら、もう1本の川の上流に向けて進んで行く。「そっちと違うだろ、すかたん!」、「そっちの水はにぃがいぞぉ」と誰も言ってはいないが、ずんずん川を遡って行くのだった。
 
この川の上流には首狩り族が住んでいる。これまでも何人もの探検家が干し柿、もとい、干し首にされているのだ。普通は干し首ぶらぶらのカットを挿入しそうなものだが、この映画は先を急がなくてはならないから、そんな胡乱なシーンはカットしてあった。ところで、干し首は『ハリポタ』にもでてくるけれど、ソフトボール大の大きさだ。どうすれば、人間の頭部があんなに小さくなるのか?ガキの頃に、少年雑誌でその写真見て、夜うなされた記憶がある。
 
この船には、酔いどれのコックの親爺とその助手という2人のおねえちゃんが乗り込んでいた。むさい男所帯に若い女がまじったら、ややこしくなるのは、火を見るよりも明らかだ。女の取り合いで、すったもんだし始める。普通はもう少しここら辺のエピソードを描きそうなものだが、この映画は先を急がなければならないから、そんな胡乱なシーンは思いっきり端折ってあった。男2人と女2人に「さっさと船から下りろ」命じて、とある村でほっぽり出す。こんな辺鄙なところで「タクシーを呼んでくれ」と言っても、来ないよ。
 
さらに、川岸まで迫っているジャングルの奥から、不気味に轟くドラムの音の中を船がしずしずと進んで行くのだが、この親爺、ドラムに対抗して、オペラのレコード大音響で鳴らしたのだ。かなり以前に、奈良で捕まった「引っ越せおばさん」のラジカセほどの大音響ではない。この時代の蓄音機には、アンプなんかついていないから。ま、それでも、鳴り物入りだから、野球かサッカーの応援合戦みたいな感じだった。(違うかも・・・。)
 
「うしろを見てみろ」と言われて振り返ったら、川面に沢山のカヌーが浮かんでいる。いよいよ首狩り族の襲来かと思って、首すくめたら、あにはからんや、なんだか様子がおかしい。「よお来はったなぁ」というほどでもないが、「何しに来たんじゃ!」でもない。何となくクリスタルというか、何となく曖昧な雰囲気だ。船に乗り移った先住民は、主人公と西洋式の握手するワケではないが、手にちょこんと触っていく。言葉も多少は通じるみたいで、何となく殺される心配はなさそうだ。
 
さて、どうやって丸め込んだのか知らないが、先住民の全面的バックアップを得られることになって、(どうも、ノーギャラのボランティアみたいだった。ここで思い出したのだが、以前TVで観て、頭に来た事件がひとつあった。なんと『募金』の詐欺だ。しかも、日当を貰って街頭で募金集めをして、詐欺師の片棒担ぎをしていた学生が沢いたという話だ。世も末だと思ったね。お前らには良心というものがないのか?怒怒怒)
 
閑話休題、なんと驚いたことに、2つの川が接近しているところに仕切り板みたいに立ちはだかっている山(というか丘か)の急な斜面を人海戦術で船を引っ張り上げるというのだ。しかも、たまげたことに、そのシーンを実写で撮影したんだ。これって、ドキュメンタリー映画? 
 
なんとかひと山越えて、もう1本の川に船が浮かんだときは、思わず万歳三唱をしてしまった。さぁ、そこから、話は急展開じゃなくて、急流下りだ。先住民のリーダー格の男が、夜陰に紛れて船の舫ロープを切ってしまう。船はゆっくり流れに乗って川を下り始める。しかし、みんな前夜の大盛り上がり大会の酒で、文字通り白河夜船状態だから、気がつかない。ついに、ボンゴの瀬に差し掛かって、船はあっちこっちぶつかって沈没寸前だ。ああ、コワ〜。
 
このシーンは、どうもミニチュアの船を使ていたんじゃないか?迫力不足は否めない。せっかく山越えをさせた船だが、ここでバラバラになってしまったら、ラストの感動的なシーンの撮影ができなくなるしなぁ。ここは模型でお茶を濁しておこうかと監督が考えたとしても、文句を言う筋合いはない。そりゃあ、仕方がなかったんじゃないかと、見終わってから、一応納得した。
 
無事に瀬を乗り切って、街に辿り着いたけれど、計画としては失敗だった。しかし、この親爺、転んでもタダでは起きない。元の持ち主に船を売った金で、一世一代の大盤振る舞いをした。あのラストは拍手喝采という感じだった。◆解除◆
 
主人公の最大の理解者である売春宿の女主人役で、クラウディア・カルディナーレが出ていた。若い頃の彼女もよかったけれど、中年の彼女もいい感じだ。この映画の頃で、42~3か。熟女フェロモンぷんぷんだけど、決して猥雑な感じはしない。それにしても、あの熱帯特有の蒸し暑さの中で、コルセットで体締めつけていたら、アセモだらけになると思うのだが・・・。
 
主人公も白の麻っぽいスーツにネクタイ、帽子の正装だ。着替えを何枚も持って来ている風でもなかったから、そりゃあ、汗臭いんじゃないか。水浴びデモしようと思って川に飛び込んだら、ピラニアに大事なところを噛みつかれるかも知れないし・・・。なにしろアマゾンなんだから。そうそう、このクラウス・キンスキーという怪優、あのナスターシャ・キンスキーのお父さんなんだ。そういえば、エキセントリックな光を宿す眼元なんかが、よく似ている。
 
ま、この映画は、ヨーロッパ人の南米での悪行を描いてやろうと思って、映画を撮っていたワケではないから、アマゾンの自然破壊に対する糾弾とか、先住民への搾取とかの胡乱な視点は、すっぽり抜けている。ひたすら男の狂気染みた夢とロマンの映画だった。
 
フィッツカラルド Fitzcarraldo (1982) 西ドイツ  
監督:ウェルナー・ヘルツォーク 
出演:クラウス・キンスキー、クラウディア・カルディナーレ