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『アギーレ・神の怒り』は、ひとりずつ間引かれていく感じだ。それが妙に恐いし、気色悪い。

クラウス・キンスキーの鬼気迫る目の演技と、歌舞伎の「見得」みたいに一瞬ストップモーション気味に動きが止まってから次の動作に移る、間(ま)の演技が凄かった。といっても、大見得を切った後に『よ、キンさん!大統領!!』のかけ声が掛かるワケではないのだが・・・。それにしても、大した眼光だ。こんな親爺に睨まれたら震え上がりそうだ。
 
キンスキーの役は、アマゾン奥地黄金郷発見スペイン調査隊の分遣隊(本隊を率いてたのが、あのインカを滅亡に追いやったフランシス・ピサロだ)の副官なんだが、分遣隊長であるフィーゴ似の貴族の親爺は、愛人まで連れて来ていた。キンさんの方も15歳になる娘を同道しているのだが、何故この当時の探検隊は、愛人やら娘まで連れて、こんな辺鄙な秘境に出っ張っていたのか?とかすかな疑念が後頭部に浮かんだが、考えてみると、スペインから荒れ狂う大西洋の海原を渡って、地球の裏側の南アメリカくんだりまで行こうかという時点で、相当な覚悟がいるだろうし、死なばもろとも、最愛の家族を国に置いて単身赴任するには、帰って来れる保証があまりにも少なさすぎたということか。(オツムがおかしくなってからだが、キンさん、自分の娘と結婚して夢の王国を作るんじゃ、と言っていた)ついて行った女の人もエライな。あの蒸し暑さの中で、コルセットをつけて飾り襟つきのドレスまで着ているのだから・・・。
 
この映画、初っ端から、高所恐怖症気味の私のような者にとっては、縮み上がり気味になっていたのだが、断崖絶壁の道を馬やらラバやら豚やらニワトリやら大砲やら車輪やら、輿(愛人やら娘やらが乗っている)を運びながら歩くのだが、茶色く濁った激流のアマゾン川の川岸に着いた所で、先に進めなくなってしまって、とりあえず分遣隊として40人を選抜して、筏で下って、近くにエルドラドがあるのかないのか調べて来いということになった。10日で帰って来れなかったら、死んだものと見なして引き上げると言われて出発したのだから、ほとんど成功の望みはなきに等しい、NASAスペースシャトルの打ち上げとは、比べものにならないくらい無謀な計画だった。
 
ただ、この調査隊は、あくまでスペイン国王に任命された正式な探検隊なので、隊長交代の手続きなんかも随分厳格だった。しかし、目玉のキンさんは、決して自分が隊長になろうとはしない。その割りに、やりたい放題するのだが。この親爺は、あくまで行けるところまで突き進み、エルドラドで、黄金に埋もれてウハウハ人生派だ。もう引き返そう派の隊長をピストルで撃ち殺すし、川の渦に巻き込まれて立ち往生してしまった筏に向けて大砲をぶっ放すし、ちょっとでも足手まといになる奴は、あの世行きの片道切符だ。
 
話は、ある種淡々と進んでいくのだが、隊員は次々殺されたり、病死したり、餓死したりしていく。地元民のインディオも全面戦争を仕掛けてくる風でもない。ひとりずつ間引かれていく感じだ。それが妙に恐いし、気色悪い。エルドラド発見に取り憑かれた主人公の飽くなき野望の果てに、エルドラドがウエルカムと言って待ちかまえているとは到底思えないのだが、撃ちてし止まんの突撃精神は、一向にへこたれない。ここらが、われわれ凡人と何事かをなし遂げてやろうという野心満々の男との、決定的なモチベーションの差かも知れない。
 
後年、コッポラ監督の『地獄の黙示録』は、この映画を参考にしたんじゃないか?という映画評が結構あるが、観ている最中に、何度か似ていると思った。『地獄の黙示録』の方は、なんと言っても、ジャングルの中の大がかりなセットやら、爆撃シーンやらがてんこ盛りだったが、こちらはアマゾン川の上を流れ下る筏の上だけが舞台だ。ただ、音もなく矢やら吹き矢やらが飛んできて、ぐさっと刺さったり、歩いてる途中にひょいと吊り上げられてしまったり、気が狂いそうなほど蒸し暑かったり、カラダのあらゆる部分を虫に刺されそうだったり、アマゾンとメコンデルタの違いはあっても、ジャングルの中での、死と狂気の隣り合わせという設定は一緒だった。
 
1時間半の短さなんだが、もう少し長かった方がよかったように思う。唐突にいろんなエピソードが始まるから、前のシーンとの繋がりが分かりにくかった。だんだん狂気に嵌まっていく主人公のまわりで、為すすべもなく運命に身を委ねる娘や愛人やほかの隊員なんかの生き死にも、もう少し丁寧に描いてやった方が、もっといい映画になったんじゃないか?それにしても、この映画、きれいな女優も出ているのだが、色気は皆無だった。
 
アギーレ・神の怒り Aguirre der Zorn Gottes (1972) 西ドイツ  
出演:クラウス・キンスキー、ヘレナ・ロホ、ルイ・グエッラ