『めぐりあう時間たち』は、いかにも女受けを狙ったタイトルだ。「時間」に「たち」なんかつけるな。

この映画、なんの予備知識もなしに観たので、なにこれ?と思いながら最後まで観てしまった。3つの時代と3つ場所で、映画的には同時進行で進んでいく3つの話が、それぞれ呼応してるのだろうとは思っていても、繋がりが分かりにくかった。最近の映画でよくあるパターンだ。 
 
バージニア・ウルフという1941年に入水自殺した英国の女流作家のことは『バージニア・ウルフなんか怖くない』というエリザベス・テイラー主演の映画のタイトルで名前を知っていたに過ぎない。この映画も観ていない。『ダロウェイ夫人』というのが、その作家の代表作だというのも知らなかった。とまぁ、バージニア・ウルフ未体験者にとっては、映画の前提条件がよく分からないワケだから、それこそ何をされるのか、バージンのようにどきどき気分だった、ワケはない。 
 
なるほど、この映画の本流はロス編だ。イギリス編が源流で、ニューヨーク編が最下流。ま、時代的にもそうなってるいるのだが。アカデミー賞の主演女優賞は、源流のニコール・キッドマンがとったが、本流のジュリアン・ムーアの方が熱演だったと思う。神経衰弱気味の陰気な嫁さんの雰囲気がよくでいていた。
 
◆◆ネタバレ注意◆◆怪物ローラの出奔が悲劇のすべてだった。ローラが家を出たのは、マタニティ・ブルーだったのか?ミスター・セロハンの旦那に愛想が尽きたのか?本人は「自分の居場所を見失って一度は自殺を考えたが思いとどまり、その暮らしが死そのものだったので、死ぬかわりに家族を捨てて生きることを選んだ」と言っているが、漠然とした実存的不安という奴か?ただの現実逃避か?不定愁訴というか、いずれにしても、合理的な理由はなさそうだった。 
 
ある日突然、犬のフンギリで、なにもかもうっちゃって蒸発してしまう女がいる。「女 三界に家なし」と言われる女にしてみれば、どこにいようと、どこで暮らしても、同じことなんだ。昔、某地方の温泉街のホテルに仲居さんを斡旋するという事務所に勤めていた女性を知っていたが、彼女によると、まあ、あきれ返るほどワケ有りの女たちが連日のように面接に訪れ、話半分も聞かずに、その女たちを手荷物ひとつで次々とホテルに送りこんでいたそうだ。「同情なんかしていたら、身が持たない」と言っていた。 
 
かにかくに、女は一旦しがらみを断ち切ってしまうと、案外あっけなく別の空間に入り込んでいけるようだ。その点、男はそうはいかない。過去の栄光をひきずりまくる。確かに、何もかも捨てた主婦が他の男の元に走ったなんて話は、古今東西、そこいら中に転がっている。ただ、この女の場合は、男に走ったワケでなかったから、残された男の子が、なぜ自分を捨てたのか?母の家出の理由が分からないといって、長じてあんな神経衰弱男に育ってしまったのか?エイズになってからあんな風になったのか?なる前からああだったのか?そこのところが映画ではよく分からないのだが・・・。◆解除◆
 
邦題の『めぐりあう時間たち』は、いかにも女受けを狙ったタイトルだ。「時間」に「たち」なんかつけるな!!原題は『The Hours』だ。『1時間』の複数形なら数時間か?それに、『めぐりあう』は違うだろ。誰が誰と巡り会ったのだ?どうしても何か形容詞をくっつけたいのなら、『響きあう時間』と違うだろうか? 
 
アルチュール・ランボーが、パリでの生活と詩を捨て、突然アフリカに旅立ったのを思い出した。天才詩人にどんな心境の変化があったのか?、なぜ、わざわざアフリカくんだりまで出かけて行かなければいけなかったのかの疑問が、久しぶり脳裏に去来した。ただ、それだけのことだが・・・。
 
めぐりあう時間たち(2002)アメリカ THE HOURS 
監督:スティーブン・ダルドリー