『惑星ソラリス』は、空想科学小説の空想の方に思いきり比重が掛かっている感じだった。

スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』(1968)と比肩されるSF映画の傑作というふれこみで観たのだが、う~ん、なかなかのものではあった。が、私的には『2001年宇宙の旅』の方に1票入れるな。この映画、2部構成になっているのだが、はっきり言って第1部はいらなかったのじゃないか?
 
◆◆ネタバレ注意◆◆ソラリスという惑星の海が意識を持っている有機体で(この辺りは、何故海が意識を持ってるのん!とつっこんでみても、持ってるんだから、仕方ないじゃん!となるのがオチだ)、その海が、人がせっかく記憶の中にしっかりカギを掛けて仕舞い込んでいる、忘れようと思っても思い出せない(もとい、忘れらない)人やモノをおせっかいにも物質化するのだ。
 
物質化するというのは、記憶の中の人やモノのイメージを、血肉の通った生命体や質量のある物体にして、当の本人の眼前に出現せしめるワケで、観ていない人には、なんのことか分かりにくいだろうが、宇宙ステーションの中には、おおよそ宇宙には不似合いなガラクタが一杯置いてあった。あれはみんな搭乗員の潜在意識の中のイメージが物質化したものなんだろう。イメージの対象が人間の場合は、コピー人間(クローン人間みたいなものか?)として、眼前に現れるワケだ。といっても幽的や幻覚とは違う。足もちゃんとある。足どころか、人体のパーツは上半身も下半身も完璧に揃っている(確かめた訳ではないが。。。)。ただ、記憶はちょっと欠落してるみたいだが、喜怒哀楽の感情も、相手を思いやるやさしい心根も、愛情もたっぷりだ。
 
主人公の親爺(この男がなんとももっさい親爺なんだ)も、10年前に自殺したはずの嫁さんのそっくりさん(こっちはえらい別嬪さんだ)に初めて出くわしたときは、ちょっとパニクって、その嫁さんのそっくりさんをロケットに乗せて宇宙空間に発射してしまった。(何すんの。この親爺は!と思った。いくら映画だといっても、なんの訓練もしていない女の人にロケットは運転できないだろ。車でも免許がいるのだから)ま、これはロケットを使った宇宙葬のバリエーションのようなもので、最初から嫁さんのそっくりさんを始末するためにロケットで宇宙空間に捨てたのだ。発射の時に、発射場の部屋(?)の中にいて、あの程度の火傷で済んだというのも、ちょっと「そりゃ、ないぜ!セニュール」だった。
 
これで、もうあんな幽霊もどきは目の前に現れないだろうと思っていたら、大間違いのコンコンチキだった。コピー2号がすぐ現れた。いくらでも複製が作れるからコピー人間なんだ。『マトリックス』の100人スミスといい勝負だ。コピー1号と2号の間には、微妙な仕様上の違いがあった。それは何かと問われたら(ベンベン)、着ている服が1号のときは自分では脱げない服だった。ところが、2号さんのときは、自分でちゃんと脱げるようになっていた。しかも2号の方が、ちょっと色っぽかったりして・・・。◆解除◆
 
しかし、まぁ、若かりし頃につき合っていて、訳ありで別れた元カノが、その頃の年齢のまま目の前に現れたら、かなりどぎまぎするだろう。こっちは無駄に歳だけとっているけれど、記憶の中の彼女は若いままなんだ。その彼女の口から『今でも愛している』なんて言われた日には、そりゃあもうグラグラっとくる。今の暮らしをかなぐり捨てて、手に手を取っての恋の道行(というほど見た目にはカッコいいものにならないだろう。何しろ若い女と老人のカップルだから、よくて父と娘と勘違いされそうだ)を決行するかもしれない。しかし、潜在意識の中のイメージが、本人に断りなく物質化されるのだから、自分に都合のいい女だけが物質化されるとは限らない。すぐに血相変えた嫁さんが目の前に現れるな。そりゃあ、凄惨な修羅場になるに決まっている。
 
意識野からさっさと消えてなくなれと念じ続けても、消し去りがたい過去の記憶というのは誰にもあるだろう。物質化されたコピー人間が、昔ひどい仕打ちをして捨てた女で、その時の恨みつらみをしっかり並べ立てられたりしたら、これはこれで、かなり悲惨な愁嘆場になる。いずれにしても、この映画の別嬪さんの嫁さんみたいなワケには、大抵の男はいかない。自業自得だけど・・・。
 
ところで、世の中にはトンデモナイものを妄想する変人奇人が結構いる。『ドッグヴィル』の二コール・キッドマンみたいに、女の子の首に首輪つけて監禁していた事件の男が、「調教もの」というゲームソフトを1000本も所有していたというのを聞いて、恐れ入った。あの手のゲームソフトは、ロールプレイングというのだろうが、1本1日のペースでやったとしても、3年はかかる。私も死ぬまでに1001本の映画評書いてやろうと密かに思っているのだが、映画と違って、2時間くらいでは終わらないだろうから、そのゲームをみんなやっていたとしたら、膨大な時間を浪費していたことになる。それと、その手のゲームソフトが、1000本も世の中に存在するいうことも驚きだった。それぞれのゲームソフトを作った人間がいるということだし、そのゲームソフトの数の何百倍か何千倍かの変態系マニアがいるということになる。
 
そいつらがソラリスに行ったら、そりゃあ、大変な事態だ。目を背けたくなるような魑魅魍魎、不気味な有象無象に宇宙ステーションの中を徘徊されたら、生きた心地がしないだろう。これって、そのまんま『エイリアン』だ。朝から晩まで、いやらしいことばかり妄想してそうな、あの監禁男みたいなのが行ったら、そりゃもう酒池肉林のハーレムというか、ソドムの市というか、♪天国よいとこ一度はおいでェ、ウ~ワ~ウ~ワ~ウ~ワッワァ~♪状態だろう。なにげに、うらやましい気がしなくもないのが情けない。 
 
話を映画に戻すと、別に女優の裸を観たいと思って、この映画観ていたのではないが、この手のマイナー映画には、お定まりのサービスカットが挿入してあった。一応必然ぽいシーンとも言えないこともないが、やはり、ちょい疑問だ。もうひとつ、びっくりしてしまったのは、◆◆ネタバレ注意◆◆第1部の終わり頃に、なんと走る車の中から撮影した、東京の首都高速が出てきたことだ。
 
確かに、低予算の映画では、『マトリックス』みたいに自前の高速道路を作ってしまうワケにもいかないし、当時のソビエトには、高架で所々2階建てになっていたりもしている(阪神高速なんかビルの腹くりぬいてある)都会の自動車専用道路など存在しかっただろうし、アメリカのフリーウエーでは道幅が広すぎて、早回ししてもジェットコースター感覚が表現できなかっただろうし、英語の道路標識だったら、読めるロシア人がいっぱいいるかも知れないし、まだまだ東西冷戦の時代だったし、日本語を読めるロシア人などまずいないだろうし、というワケで、東京の首都高に白羽の矢が立ったという訳か。何となく納得。
 
それにしても、我々日本人が観たら、やはり、とんでもなく場違いな感じだった。何しろ日本のタクシーが横を走っているのだ。「阪急電車」「急行は早い(だったかな)」と書いてあるTシャツを着ている女の子が出てくるというアメリカ映画より、ずっとけったいな感じだった。◆解除◆
 
監督のアンドレイ・タルコフスキーは、一部で熱狂的なファンがいるらしいが、この監督、かなり変度高い。普通SF小説の作家とか、SF映画を撮ろうかという監督は、科学大好き少年のなれの果てと違うか?しかるに、この監督は、どちらかいうと空想科学小説の空想の方に思いきり比重が掛かっている感じだ。あまり科学的な視点はない。その点、『2001年宇宙の旅』の方は、ずっとサイエンティフィックだった。
 
最後に、◆◆ネタバレ注意◆◆例の無重力の抱擁シーンは、すごく叙情的なんだが、火のついた燭台がぷかぷか浮遊するのは、いくら何でも危険がアブない。それに、テーブルに置いてあった燭台が、勝手に浮かび上がるというのも?マークだ。もうひとつ、ピーター・ブリューゲルの絵は、何の象徴なのか?分かりにくすぎる。◆解除◆
 
惑星ソラリス (1972)ソ連 СОЛЯРИС / SOLARIS 
監督:アンドレイ・タルコフスキー 
出演:ナタリア・ボンダルチュク、ドナタス・バニオニス、ユーリー・ヤルヴェト、ウラジスラフ・ドヴォルジェツキー、アナトーリー・ソロニーツィン