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『ドッグヴィル』の絵作りの奇天烈さは、テーマの奇天烈さからひねり出された、ある種必然の産物みたいだった。

こんな奴(女)いないだろうというのが、見終わった時点での率直な感想だ。どんな映画にも、カタルシスというものがあるけれど、誰もこんなエンディングを期待していない。しかし、「これ以外にどんなエンディングがあるというのだ?」と監督(脚本も書いている)に開き直られている感じだった。プン
 
のっけからビックリ仰天だ。映画というのは、リアリティが大事だから、誰も行ったことのない宇宙の果てでも、海底10万マイルでも、中つ国でも、ネバーランドでも、どこでもかしこでも、それらしいセットを組んだり、ロケしたり、CGを使いまくったりして、仮想のリアリティを出そうとするのだが、この映画は、セットというほどのセットもない。まるで前衛劇の舞台みたいなシンプルさだ。ドアすらない。犬は床に線画が書いてあるだけだった。
 
真俯瞰からの映像は、なんとカメラを13台もスタジオの天井からぶら下げ、レール使って移動撮影をして、合計156のアングルで撮影して、コンピュータで合成したものだった。こればっかりは、観ないことにはイメージ湧かないだろう。
 
絵作りの奇天烈さは、この映画のテーマの奇天烈さからひねり出された、ある種必然の産物だろう。あまりにも哲学的というか、人間性の矛盾をさらけ出したようなストーリーだから、リアリティのある背景で演じられたら、観ている方は耐えられないほど重い映画になっていただろう。例えば、松本清張の『砂の器』の重苦しさと安部公房の『砂の女』の重苦しさの違いみたいな感じか。おっちゃん、『砂の女』の世界の方がよりシュールな重苦しさだったと思うが、目を背けたくはならなかった。 
 
◆◆ネタバレ注意◆◆ ローレン・バコールをはじめとする俳優の演技は、バリバリのリアリズムだった。錚々たる俳優がやっているだけに、演技に破綻はない。ヘンコな親爺はヘンコらしく、ヤキモチ焼きのおばさんはヤキモチ焼きらしく、勘違いしてる田舎の別嬪さんもそれらしく演じていた。ただ、トムという作家志望の若い衆だけは、妙にリアリティがなかった。どいつが腹立つといって、あの若い衆が最悪だった。 
 
善意の青年面をしていたのは最初のうちだけで、二コール・キッドマンがやっている主人公のグレースが窮地に陥っているのに、カラダを張ってでも守ってやろうとしない。こんなつまらぬ男に惚れているグレースも男を見る目がない。イヤ、惚れ合っていたワケではないのかも・・・。
 
乳母日傘のお嬢さま育ちみたいだったこの娘、ギャングの追っ手から逃れるために、この山の中のどん詰まりの村に流れ着いたということだったが、いささか奇妙な設定だった。それに、いくら2週間で村人全員から気に入られないと、この村を出ていかなくてはならないといっても、あそこまで下手に出なくてもいいんじゃないか。
 
何とか村で生活をさせてもらえることになったものの、ほとんど牛馬のようにこき使われていた。『ドッグヴィル』は「犬の村」という意味だ。犬は人間以下の状態を指すときに引用される記号だが、この映画では、まんま首に鎖までつけられていた。 
 
あのマゾっ気のあるクソガキが、お尻ペンペンしてくれと頼むシーンは、頼みに応じて尻を叩いてやっても、いずれ母親に告げ口するだろうし、叩かなくても、叩かれたと嘘をつかれるだろうし、どっちに転んでも不利になる選択だった。こういうガキが一番たちが悪い。まして、手込めにされた男の嫁さんにねじ込まれて、黙っていることはないだろう。プンプン◆解除◆
 
こう書くと、脚本がそうなってたんだから、仕方がないと言われるかも知れないが、多少はおかしな成り行きになるのはかまわないが、脚本家は、根本的なところでは「そんな奴いないぞ」と思わせないように書いておかないとダメなんじゃないか。この映画の場合、主人公も、村人も、ギャングも、どいつもこいつも、そんな奴いないぞ。どこにでもいそうなのは、あの運送屋の親爺だけだ。
 
ニコール・キッドマンは、かわいらしい顔をしているけれど、随分根性のあるというか、大した女優魂だ。こういう体当たり的な汚れ役演技が見苦しくならないのは、持って生まれた美貌だけじゃなくて、聖性みたいなものがあるからだろう。ちょっと誉めすぎか。 
 
この映画、暗い話でもミュージカルに出来ると証明してみせた『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の監督の作品だった。それにしても、村人の立場だったら、あんたも同じことをするかも知れないみたいな捨て台詞を観客に投げつけるのは狡い。観客をへこまして、どうするんだ。プンプンプン
 
ドッグヴィル DOGVILLE(2003) デンマーク