『羅生門』は。若き京マチ子嬢を観賞するだけでも、一見の価値ありだ。
今朝は早くに目が覚めたので、映画でも見て時間をつぶそうかと思い、iTunesの映画のサイトにアクセスして、何かいいのはないかと物色していたら、黒澤明監督の「羅生門」のデジタル完全版というが、レンタルできるということだった。
早速ダウンロードしのだが、何しろ65年も前の映画なんだが、全くと言っていいほど、古くさい感じはしなかった。いや、大したものだ。この映画は、どうも今回が初見のようだった。所々見たことがあるような、ないようなシーンがあるのだが、予告編とか、何かの折に、部分的に見ていたのだろうか?
ところで、黒澤明という監督は、リアリズムとは無縁のお方だというのが、よくわかった。極端なことを言えば、あの映画は舞台劇だったということだ。舞台では、どんなに血なまぐさいシーンでも、実際に血糊べったりという訳にはいかない。そんなことをしなくても、観客と舞台の間に、「芝居でっせ、お客さん」というお約束があるから、観ている方もさほど違和感を感じないで済むのだ。
ところが、今時の映画は、仮想現実というか、あらゆるシーンにリアリティを持たせよーとする。宇宙の果てであれ、太古の昔であれ、未来であれ、目の前にあるがごとくに再現するというのが、今時の映画だ、
確かに、この映画でも、クレーンで俯瞰から荒れ果てた羅生門の全景を写したりしているから、映画的ではあるのだが、本質的には舞台劇そのものだった。
すなわち、役者の台詞は標準語だし、衣装はそれなりに汚れていたり、華麗だったり、たとえ暴漢に手込めにされた後だといっても、女優さんの胸もとはキチンと合わされていたり、化粧もそれなり乱れていないし、無精髭のはずなのに、きれいに整えられていたり、役者の肉体も、遠目には判らないものの、近くに寄ったら、肉体労働者の荒ぶる筋肉ではなくて、ひ弱なそれだったり。ま、何とも上品な映画だった。
この映画だったら、当時のPTAのおばさんも、女学生が映画館で観ても問題なしと言っただろう、いや、やはり、こういう女の本質を描いたような映画は、良妻賢母教育には、少々マズイのじゃないかという理屈で、観たらダメダメと決めたかも・・・。
待てよ。ここはやはり、黒澤監督といったら、芸術なんだから、観たらダメとは言えなかったかも・・・。それとも、そもそも文部省推薦の映画しか観たらダメなのか?
それにしても、京マチ子は、見事に平安の女性(にょしょう)を演じていた。撮影当時は多分25歳くらいだろうが、妖艶さと初々しさと荒々しい情念とをないまぜにした、これぞ女優!の演技だった。いずれにしても、若き京マチ子嬢を観賞するだけでも、一見の価値あり。
それにしても、◆◆ネタバレ注意◆◆ラストの捨て子のシーンは、要らなかったんじゃないか?あのシーンが必要だったとしたら、やはり、1950年という終戦後5年目の映画だったからかも知れない。◆解除◆
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