『けだもの組合』は、話の途中に無関係なコントが挟まっているという感じだった。

マルクス・ブラザースの喜劇映画だが、いまいちついて行けなかった。いつものようにグルーチョは相手役をコケにしまくっているし、ハーポはエキセントリックなギャグを連発するし、チコは器用にピアノを弾くし、ザッポは相変わらず無芸だしと、それぞれまあまあやっているが、一向に面白くない。この面白なさは、致命的だな。
 
『我輩はカモである』は結構笑えたのに、こちらはすべりまくっている。スラップスティックコメディとしては、『我輩はカモである』が数段よくできていたということになる。 
 
つらつら考えるに、この映画はストーリーがありすぎた。監督が話の筋を追っかけている部分とマルクス・ブラザースが芸をする部分がうまくかみ合っていない。話の途中に無関係なコントが挟まっているという感じだ。マルクス・ブラザース以外の普通の役者が面白くも可笑しくもない真面目な芝居をしてたのでは、ハッキリ言って間が持たない。途中で2回も中座してしまった。なんともまどろっこしい。映画館で観ていたら、席を立つお客さんがいっぱいいそうだ。
 
ところが、この映画、元々彼らの舞台喜劇だったのを映画に焼き直したものだった。ということは、この話をまんま舞台にかけていたのか?ま、グルーチョの場合は、しゃべり芸だからそれなりに客の反応見て、アドリブをかましていたのだろうが、映画ではアドリブができない。ハーポのハープやチコのピアノ演奏も、舞台でなら、はちゃめちゃなことをやった後に、かっこいいところを見せて、客に「うまい!」と感心させて拍手をもらうパターンだ。これも映画ではちょっと無理。 
 
映画的演出に生涯こだわった喜劇役者といえば、やはり身体を張っていたバスターキートンだろう。チャップリンも基本はペーソス系だが、映画ならではの演出も結構うまかった。ふたりとも監督を兼ねていたから、映画としての出来と自分の芸のマッチングにこだわりがあったのだろう。
 
ところが、マルクス・ブラザースの場合、根が舞台芸人だから、ひとりが芸をしてるときは、まわりは少し引いて邪魔をしないようにしている。しかし、映画は舞台ではないから、ひとりだけが芸をして、まわりがぼさっと突っ立っていると間が持たない。また、その芸も映画的にスピード感のあるものでないと、目の前で生でやっているワケではないから、ハラハラしたりドキドキしたりしない。上手にピアノ弾いても、それがどうしたのという感じだ。
 
ストーリーがありすぎると書いたが、こういうスラップスティック・コメディの場合、コメディアンは基本的に出ずっぱりでないとダメだ。ストーリーはコメディアンのギャグを邪魔しない程度におおざっぱな設定があればよいのではないか。ストーリーの説明のために、脇役が画面の中央で芝居をするシーンが多ければ多いほど、お笑いの濃度が薄くなるワケだ。 笑いのツボというのは、昔からそんなに変わっていないと思うが、アメリカン・ジョークで笑えなかった時のような、ちょっと肩すかしを食らった感じだった。 
 
この映画の原題は『アニマル・クラッカーズ』だから、動物のカタチに型抜きしたクラッカーのことか?しかし、食べるクラッカー以外に、クラッカーには、かんしゃく玉とか、貧しい白人とか、ものすごい美人とか、逸品とか、コンピュータ犯罪者とか、招待されてないのに会合に強引に入り込む奴とか、関連性のない意味がいっぱいある。コンピュータで悪さをする、あのなりすまし犯のような奴は、まだこの時代にはいない。
 
それにしても、邦題の『けだもの組合』というのは、映画のどのあたりを根拠につけたのか?この題だけを見たら、いやらしい内容を想像する奴もいるだろう。なにしろ「けもの」じゃなくて「けだもの」なんだから。「けだもの」なんて言葉、悪代官に手込めにされて、「このけだもの!」と泣き叫ぶ町娘くらいしか使わないよ。
 
けだもの組合 (1930)アメリカ Animal Crackers 
監督:ヴィクター・ヒアマン 
出演:グルーチョ・マルクス、チコ・マルクス、ハーポ・マルクス、ゼッポ・マルクスリリアン・ロス