『キス・オブ・ザ・ドラゴン』は、『ニキータ』より強く、『レオン』より切ない、というフレコミだったが・・・。

ニキータ』より強く、『レオン』より切ない、というフレコミだったが、それほどでもなかった。ジェット・リーという役者はかなり地味なんだが、カンフーのキレは抜群だ。こういうタイプは、教室ではあんまり目立たないのに、柔道の校内大会のときだけは、小さい体ででっかい奴をぼんぼんぶん投げて、強すぎて目立ちまくという感じだ。しかし、女子にはそんなにもてない。なんとなく暗い感じが不評なんだろう。自慢じゃないが、若かりし頃は女子にもてなかったが、別に暗かったワケではない、ただ単にシャイなせいと女好きのしにくい容貌だっただけだ。いまだに「渡世人には女はいらねぇ」の毎日ではあるが・・・。
 
何の話だっけ?しかし、何故フランスの話なのに、英語を蕊っているのかという不自然さがついてまわった。ま、ジェット・リーが中国語と英語しか喋れないというのが裏事情だったとしても、フランス警察の刑事やら、街のチンピラまでが、流暢な英語を喋りまくるというのは、どんなものか?『ラストサムライ』で、当時の侍が英語ぺらぺらだというのと同じだ。
 
相手役のブリジット・フォンダは、アメリカ生まれの田舎者という設定だったから、この二人の間では、英語で意志が通じるというのはいいとして、ここは、『ターミナル』のトム・ハンクスみたいに、リーさんにまず言葉の障壁を乗り越える努力をしてもらわなければいけないんじゃなかろうか?そういう視点がまったく入っていないのが物足りないと感じたのは、果たして私一人だろうか?
 
あの悪の権化みたいな警察官は、もっとフラン人ならではの底意地の悪~い悪知恵を働かさないとイカン。部下を怒鳴り散らしているばかりで、一向に悪賢こそうに見えなかった。あの親爺、陸亀を引き出しで飼っていたが、あの亀ももう少し小道具として絡ませなきゃ、何故ここで亀なんだ?の疑問が脳裏に浮かんでしまった。
 
こういう映画は、あまりややこしいことを言わずに、アクションシーンだけを鑑賞していたら、いいのかもしれないが、そもそも、何故中国から来た警官があの中国人の麻薬のボスを殺したことにしたかったんだ?フランス警察が、女殺し屋を使って殺したことがバレたら、両国の友好関係にヒビが入るのか?中国の麻薬王が、フランスになんの用があったのだ?あの警察官の親爺の部下というか手下たちは、警官なのか?それともヤクザなのか?あの警察の空手道場のシーンで、空手の黒帯が、それにしても多勢出てきたけれど、たった一人にやられるようでは、有段者じゃないだろ。しかも、やられてすぐに起きあがって来るな。
 
この映画はパリが舞台だから、一応観光名所も出てくる。特にセーヌ川のバトォムーシュの中でのアクションシーンは、物珍しさも手伝って、おもしろい見せ物だった。ただ、この映画の直後に観た、ゴダールの『はなればなれに』では、なんとルーブルの中を男女3人が走りまわっていた。しかし、まあ、ルーブルの中で、アクションシーンを撮っていて、ミロのビーナスを引き倒したり、跳び蹴りでモナリザの額をぶち抜いたり(モナリザは防弾ガラスで仕切られているけど)したら、それこそ、国際問題だ。
 
この映画では、ワイヤーアクションは使っていなかったが、エッフェッル塔や凱旋門で、ワイヤーアクションをやってくれたら、よかったような気もする。パリのチャイナタウンというのは聞いたことがないのだが、あるのか?パリの場末にあるという設定の中華料理用エビせんの専門店というのも、ビックリ仰天だ。そんな店、絶対にないだろ。 
 
◆◆ネタバレ注意◆◆「キス・オブ・ザ・ドラゴン」というタイトルだけを見たら、誰でもブルース・リーの『燃えよドラゴン』を連想するんじゃないか。「キス・オブ・ザ・ドラゴン」は、「龍の口づけ」だ。龍はやたらでかい(?)し、口が臭そうだから、口づけどころか、ひと呑みにされてしまいそうだ。これは、相当恐い武術の名前みたいだ。ところが、どっこい「キス・オブ・ザ・ドラゴン」は鍼治療の名前だというのには笑えたけれど、あのシーンは、必殺仕掛人藤枝梅安のパクリみたいだ。同じ必殺の鍼治療をやるのだったら、『マスク』みたいにCGを使いまくって、目玉が3mくらい飛び出すとか、頭が爆発するとか、目や耳から滝の如く血が噴き出すとかして欲しかった。最大の見せ場なんだが『レオン』の爆発シーンみたいな意外性とか、スカッとするカタルシスがなかった。◆解除◆
 
ブリジット・フォンダが、ピーター・フォンダの娘で、ジェーンフォンダの姪で、ヘンリーフォンダの孫だというのは分かっていたが、この女優の出演作を観たのは、これが初めてだった。化粧を落とすと、結構普通の人っぽかった。
 
キス・オブ・ザ・ドラゴン kiss of the Dragon (2001) アメリカ  
監督:クリス・ナオン 
出演:主演:ジェット・リーブリジット・フォンダ、チェッキー・カリョ 

『マイ・ドッグ・スキップ』は、犬好きには堪えられない映画らしいが、猫派はやや冷静に観ることが出来た。

アメリカでベストセラーの自伝小説をもとにした、少年と犬のハートウォーミングストーリーだ。アメリカ人に限らず、犬好きには堪えられない映画らしいが、猫派なんで、やや冷静に観ることが出来た(映画を冷静に観てどうすんの!)。
 
この映画は、アメリカ人のノスタルジーを思いきりかき立てる映画なんだろう。犬がやたらと人なつっこいだけじゃなくて、主人公の少年が、はっきり言って、少々アカンタレなのと、しっかり者で、かわいらしいガールフレンドが出てくるのと、キレイで優しそうなお母さんとちょっと頑固だけど慈愛のある眼差しで見守ってくれているお父さんと、戦争から逃げ帰ってきた隣のおにいさんと、食料品店のアフリカ系アメリカ人の親爺さんと、周りの人はいい人で、車は丸っこいクラシックカーで、悪役だったのは、いじめっ子の3人組(そのうち仲良しになる)と密造酒の売人AとBの二人組くらいで、戦争中といっても、どこか街はのんびりしていて、いい時代だったんだなぁと振り返ることが出来るのだろう。
 
◆◆ネタバレ注意◆◆ 『山の郵便配達』で、年老いた郵便配達人の後を地味について行っていたワンコの「次男坊」の方が、けなげだったんじゃないかと思う。
 
この映画で号泣したという人が結構いるらしい。どこが泣けるポイントなのかよく分からない。密造酒の売人Aにスコップで殴られて、あのとき犬が死んでしまったのなら、泣くというのも分からないこともないが、獣医の懸命の救命治療の甲斐あって、一命を取り留めたんだから拍手喝采、「よかった。よかった」とか言って、普通はニコニコ顔になるのじゃないの?
 
犬は子供にとって無二の親友になるらしいが、残念ながら、うちは犬を飼ってなかった。そのせいか、犬が飼い主を見るときの「飼い主命」のよう
なつぶらな瞳がちょっと苦手だったりする。砂糖珠代ちゃんのカメラ目線に近いものがある。猫は絶対あんな目つきはしない。猫は何か食べものが欲しいときに、猫なで声ですり寄ってくるときですら、目はいつもクールだ。
 
映画のラストで、ベッドによじ登りたいのだけれど、登られない老犬は、先日18歳の天寿を全うした、わが家の老猫の最期の姿と重なって、老いの悲哀を感じた。が、犬は老い先の短さを嘆いたり、空蝉の世を儚んだりはしないらしい。
 
ところで、ペットロスの問題は、高齢化社会のこれから一層深刻になるだろう。何しろ老人所帯の4軒に1軒は犬を飼っているらしい。犬より人間が先に逝ってしまうのも困ったことだが(残された犬は、誰が世話をするの?)、犬に先立たれた後の寂しさは、老境の心細さと相まって、相当落ち込むだろう。猫は犬ほど主人思いではないから、多少はダメージが少ないか?
 
今のところはクールさを装ってるが、そうでもないみたいだ。特に夜中に目覚めて、用を足しに行った帰りに、足元をうろちょろする小さいのがいなくなったのが寂しい。
 
ベッドの上で居眠りしていたスキップは、あのまま死んでしまったのかしら? ◆解除◆
 
マイ・ドッグ・スキップ My Dog Skip (2000) アメリカ  
監督:ジェイ・ラッセル 
出演:フランキー・ミューニース、ケビン・ベーコンルーク・ウィルソン、ダイアンレイン 

『ブロードウェイと銃弾』は、そんなに笑える映画とは思わなかった。

こういう映画をバックステージコメディというらしいが、そんなに笑える映画とは思わなかった。台詞のちょっとしたニュアンスとかで、ユーモアというか、くすぐる笑いなんかをちりばめてあるのだろうとは思うけれど、字幕ではそこまで伝わらんからか・・・。
 
ウディ・アレンくらい巨匠という形容が似合わない監督も珍しい。軽妙とか、洒脱とか、都会派とか、粋人とか、才人というのはピッタリだが、如何にもニューヨーカーで、タコにもユダヤ人だ。しかし、どこか万人受けしない。
 
どうして?とつらつら考えるに、誰もウディ・アレンの暴走(?)を止められないからだろう。制作費が思いきりかかる大がかりなセットも作らないみたいだから、興行成績にそんなにピリピリしなくてもいいんじゃないか。この映画の主人公の脚本書きのおにいさんなんかは、かわいそうなくらい書き直しをさせられていたが、ウディ・アレンの書いた脚本にケチをつける映画会社のお偉方みたいな存在はいないということだろう。
 
つまり、ハリウッドとは別のシステムで映画作りをやっているから、書きたいシナリオを書いて、撮りたいように撮る。ま、唯我独尊状態だね。なもんで、ウディ・アレンが書いた脚本どおりに映画は撮られていくから、誰が見ても、なんだかおかしいんじゃないかと思うところがあっても、有馬徹とノーチェックバーナーだ。それにしても、好き放題に映画を作っているはずのウディ・アレンが、何故またこんな脚本書きの悲哀みたいな映画を作ったのだろう?
 
◆◆ネタバレ注意◆◆この脚本書き兼演出家のおにいさんは、芝居の公演資金を出してくれるスポンサーがやっと見つかって、なんとか稽古を始められることになったが、スポンサーというのがギャングのボスで、自分の情婦のショーガールを主役にするという条件で、芝居の資金を出しているのだ。この情婦のボディガード役で、稽古場に来ていたチーチという名前のギャングのおにいさんが、脚本にいろいろ口を挟む。仕方がないので、その意見に従って何回も書き直して、「何も足さない。何も引かない」の正反対で「あれも足しぃの、これも引きぃの」と、しがないコピーライターみたいに、台本を換骨奪胎していたら、結構いい芝居になって来たんだが、自分が書いた脚本とは言えない代物になってしまった。
 
しかも、ボスの情婦は箸棒の大根で、その内チーチがすっかり脚本家気取りになって、「あの女の下手な芝居にはガマンがならん。オレの芝居が台無しだ」と言って、この情婦をズドンと始末してしまう。 本来の脚本書きのおにいさんも、大女優と浮気したもので、同棲していた彼女に逃げられて、踏んだり蹴ったり状態なんだが、芝居の初日の幕が上がると、代役の女優の熱演もあったし、舞台裏でのドンパチも絶妙の効果音と間違えられて、大成功。めでたしめでたしの話だった(のか?)。◆解除◆
 
自分は、誰にもいちゃもんをつけさせない(たぶん)くせに、いちゃもんをつけられまくるかわいそうな男の話を映画にするところが、ウディ・アレンらしいシニカルなコメディ・センスというべきか?言い換えたら、イケズ、スカンタコだろうけれど、それが反感をもたれる所以でもあるのだろう。
 
なんだか、ウディ・アレンを弾劾するような展開になってしまったが、決してウディ・アレンの映画がキライではない。ただ、『ブリキの太鼓』がキョーレツ過ぎたので、今になると、どんな映画だったのか、さっぱり思い出せない。ま、その程度の軽いノリの映画ということだ。 「ブロードウェイと銃弾」というのは、意味不明の邦題だ。この映画の原題『BULLETS OVER BROADWAY』は、和訳すると『ブロードウェイを飛び交う銃弾』でしょう。このタイトルなら映画の内容をきちんと表している。
 
ブロードウェイと銃弾 BULLETS OVER BROADWAY (1994) アメリカ  
出演:ジェニファー・ティリー、ジョン・キューザックダイアン・ウィーストチャズ・パルミンテリ、メアリー・ルイーズ・パーカー、ロブ・ライナー 

 

『ブリキの太鼓』は、観る前からちょっと心配だったが、やはりエライものを観てしまった。

この映画の原作者、ギュンター・グラスが今年の4月に亡くなった。享年87。戦後のドイツ文学の中で、特別な存在だったようだが、こちとらはフランスかぶれだったもので、作品を読んだことはなかった。
 
映画を観て衝撃を受けたのは、久しぶりだ。『エル・トポ』以来か・・・。どちらの映画も甲乙つけがたいほどグロテスクなシーンが多いのだが、こちらの方がちょっと根が深いというか、人間性の暗部にしっかり碇が届いていた。
 
「1927年のポーランドのダンチッヒを舞台に、3歳で自らの成長を止めた少年オスカルの視点で、激動の時代を描いた異色作」ということだったので、観る前からちょっと心配だったのだが、やはりエライものを観てしまった。
 
ヨーロッパ人は、キリスト教の戒律でがんじがらめにしておかないと、何をしでかすか分からない、とんでもない連中なんだ。この映画でも、ナチスの台頭が背景だったが、ナチスをのさばらせた原因のひとつが、ヨーロッパ人の野蛮さだと思う。元々狩猟民族だったから、手間暇かけて育てて収穫するんじゃなくて、そこら辺にあるものを収奪するのが基本なんだ。金も財宝も食いものも女も。ほんの6~70年前の出来事なんだけれど、今でも野蛮さ自体はどれ程も変わっていないだろうと、信じて疑わない。
 
こういう野蛮さのバックにあるのは、知性の退廃というやつだろう。知性というのは、言い換えたら知恵だ。知性の退廃といえば、はっきり言って、悪知恵のことだ。純真素朴な民族なら、端から諍いは好まない。国と国が国境線で隣り合っていて、しかも、歴史的に国境線がああっちこっちに行ったり来たりしていたのだから、力でねじ伏せた方が正義だみたいな考えになりやすい。悪知恵を働かす奴が気に入らない奴を皆殺しにして、そこいら中の富を独り占めする。その内、寝首を掻く奴が出てきて、ボスの座をかっさらう。こういうことを連綿と続けてきたのが、ヨーロッパだ。
 
映画の話に戻ると、主人公のオスカルは、見た目は8・9歳という感じだった。この子が、3歳のときに自分の意志で成長することをやめたということだが、3歳といえば、よちよち歩きからやっと抜け出したところだろう、どう考えても、自我の目覚めには早いんじゃないか?しかも、肉体的成長をやめたというのは、百歩譲って認めても、精神的には成長しているのだから、周りの大人が、いつまでも子供扱いするのは何故なんだ?
 
イヤ、話はそんなに単純ではなくて、このガキの中では、子供の部分と大人っぽい部分がないまぜになっていたようだ。特に、この映画のテーマのひとつである性の面では、3歳の子供はハッキリ言って、性に目覚めてたりはしない。この面では、オスカルはどちらかというと、思いっきりませたガキだった。
 
◆◆ネタバレ注意◆◆ それにしても、グロテスクな映像の連続だ。若かりし頃のおばあちゃんとおじいちゃんとの出会いのシーンもそうだし、オスカルの誕生のシーンもそうだし、特製スープのシーンも、ウナギ漁のシーンも、母親の不倫シーンも、粉末ソーダも、これでもかというくらい神経を逆なでするシーンが続く。極めつけは、オスカルの金切り声だ。超能力の暴走というか、『キャリー』を思い出した。 ◆解除◆
 
しかし、目を覆う気にはならなかった。グロをグロとして見せつけることが監督の狙いではなくて、この脚本では、必然的にグロっぽくなってしまったという感じだ。
 
シャルル・アズナブールが、ひょっこりといった感じで出ていた。ユダヤ人のおもちゃ屋の親爺の役なんだが、この親爺だけがこの映画の中で、唯一マトモぽかった。
 
それから、かつて『てなもんや三度笠』で珍念役をやっていた白木みのる似のサーカスの団長やら、読心術のできる南米系(?)の小女やらの異形種交流も盛んだった。
 
ちなみに、白木みのるさんの本名は、柏さんで、柏を木と白を分解して、実が成ったらいいというので、「白木みのる」になったらしい・・・。
 
広場でのナチの大会をオスカルの太鼓がダンス大会に変えてしまうシーンは、『フィッシャー・キング』のグランド・セントラル・スーテーションのシーンを彷彿とさせた。テリー・ギリアムが、この映画を観てぱくったのかも・・・。
 
この映画もファンタジー映画のカテゴリーに入るのだろうが、ほとんど悪夢のごときファンタジー映画だった。ヨーロッパ映画は、フランスも、イタリアも、スペインも、イギリスも、ドイツも、結構変わった映画が多い。子供が小さかった頃は、ハリウッドものばかり観ていたキライがある(子供がこんな映画を観たら引きつけ起こす)。それと、近所のレンタルビデオ屋に、こういうヨーロッパものが置いてなかった。それにしても凄い。一見に値することだけは保証する。
 
ブリキの太鼓 DIE BLECHTROMMEL (1979) 西ドイツ、フランス  
出演:ダーヴィット・ベネント、マリオ・アドルフ、アンゲラ・ヴィンクラー、ハインツ・ベネント、ダニエル・オルブリフスキー、シャルル・アズナヴール 

『ライトスタッフ』は、『プロジェクトX』風に仕立て直した方がいいんじゃないか。

アメリカが旧ソ連と宇宙飛行競争にしのぎを削っていた頃の宇宙飛行士の話だ。内幕ものと言えないこともない。旧ソ連や中国では絶対に作れないタイプの映画だね。如何にも個人主義の国、アメリカならではだ。
 
前半は音速の壁への挑戦話だ。マッハ1は時速にすると1225km、この壁を突破するのも結構大変だったみたいだが、突破したら、次はマッハ2.3あたりに空の怪物がおる言われていた。その壁も破られ、今や無人の実験機が音速の7倍(7700km)の速度をマークしているらしいが、そんなに急いでどこ行くの?
 
そういえば、アイルトン・セナは「音速の貴公子」と言われていたな。1994年5月1日に、イモラサーキットで事故死したのだった。もう20年以上も前になるのか・・・。享年34。まさに夭折という奴だ。合掌。セナは絶頂期にホンダエンジンの車に乗ってドライバーズチャンピオンに3回もなったことや日本人好みの甘いマスクと相まって、日本人女子のアイドルだった。嫌韓意識が今ほどでない頃に、4様はおばちゃんのアイドルだったが、セナ様にきゃあきゃあ言ってたのは、30歳くらいまでの女子だろう。中には、おばさんもいたかも知れないが・・・。まさに日本のF1人気=セナ人気だった。モナコ・グランプリでやたら強かったこととか、宿敵プロストとの数々のバトルも忘れられない。しかし、いくらF1カーが早いと言っても、時速1225kmは出せないだろう。
 
映画の話に戻ると、音速の壁に挑戦するテストパイロットの話は、途中で立ち消えになって、話はいつのまにか1958年から始まったマーキュリー計画のための、宇宙飛行士候補生選抜試験にすり替わっていた。
 
◆◆ネタバレ注意◆◆ それにしても、この映画、宇宙飛行士なんかサルみたいなもんだといって、なろうとしなかったテストパイロットを出してきたのはどういう理由だろう?しかも、この親爺(サム・シェパードがやっていた)は、最後に、旧ソ連の持っていた高度記録を破ってやると言って、無茶な飛び方をして一機(多分数10億円ではきかないだろう)をお釈迦にしてしまった。なんだか、この親爺を時代に逆らったヒーローみたいな描き方をしていたけれど、「なんでやねん?」と思った。これはこれ、あれはあれで、両者の対比に必然性が感じられない。7人の宇宙飛行士の生き方の、アンチテーゼとして出してきてる風でもなかったから、別に出さなくてもよかったんじゃないか。サム・シェパードはカッコよかったけれど・・・。 ◆解除◆
 
それより、宇宙飛行士同士の葛藤とか、ジョンソン副大統領に代表されるワシントンのお偉方の思惑とのつっぱり合いとか、科学者たちとの意識のズレなんかの方をもっと前面に出して欲しかった。しかし、あれは壮大な国家プロジェクトなんだから、あまり茶化したりはできないな。ともかく、第1次の7人の宇宙飛行士のことをライトスタッフ(素質ある者達)と呼んだらしいが、この7人、どいつも一筋縄ではいかん曲者だった。それぞれの出身母体である陸海空軍の精鋭パイロットなんだから、プライドも高い。このときの厳しい選抜試験が、『ガタカ』の元ネタになっているのかしら?
 
アメリカも日本と同じで、ニュースのワイドショー化が甚だしいので、宇宙飛行士は、正に国民的ヒーローに祭り上げられていたが、みんな女房持ちだから、嫁さん連中も姦しい。しかし、2回目に飛んだグリソム夫妻は気の毒だった。着水後にカプセルのハッチが勝手に開いて(と主張していたが、無意識に脱出用レバーを引っ張ったんじゃないか)沈没してしまったから、ケネディ大統領からのねぎらいの言葉もジャクリーンとの懇談もなしだった。その次の、グレン中佐の軌道飛行成功のときのニューヨーク大パレードとは、月とすっぽんほどの違いだ。
 
この頃は、宇宙飛行競争で、旧ソ連の方がちょっとリードしていた。スプートニク2号ライカ犬に始まって、「地球は青かった」のガガーリン、地球周回飛行一番乗りのチトフ、「ヤーチャイカ=私はカモメ」のテレシコワと、ソ連一歩リード状態が続いていた。次のジェミニ計画で、アメリカも巻き返しを図るのだが、ジェミニ計画では、宇宙船も二人乗りになって、宇宙船同士の軌道上でのランデブーとドッキング(この言葉、子供心にも、いやらしい感じがしたのも事実だ)に成功すると、お次は、船外活動だ。宇宙服を着て宇宙船の外に出ていく姿が映っているテレビの画面を息を詰めて眺めていたものだ。
 
ま、どちらにしても、3時間は長すぎる。再現ドラマ仕立てのドキュメンタリーみたいなものだったので、いっそのことNHKの『プロジェクトX』風に仕立て直して、『第1部 男たちはどうやって音速の壁を超えたか?』、『第2部 アストロノーツへの試練の道-サルになんか負けられるか-』、『第3部 宇宙からの帰還 その栄光と悲惨』の3部構成くらいでリメイクした方がいい。中島みゆきの歌もピッタリはまるような気がする。
 
ライトスタッフ The Right Stuff (1983) アメリカ  

『紅いコーリャン』は、まんま中国版「赤いシリーズ」だった。

主役のコン・リーは、中国の百恵ちゃんと言われていたくらいだから、ホントによく似ていた。この映画は、赤がテーマカラーだから、まんま中国版「赤いシリーズ」だな。それにしても、監督のチャン・イーモーは、こういう中国の大地に根ざした映画の方がいい。ワイヤーアクションものは、宙に浮いている分、華麗だけど浮ついている。 (エラそうに!)
 
第2次世界大戦前後の中国を舞台にした映画は、どうしても日本軍の蛮行が描かれる場合が多いが、この映画でも、あの隊長は無茶苦茶な命令を出した。いくら何でも、これはフィクションで、史実に基づいているワケではないだろうと思うのだが、日本人の端くれとして、何となく居心地が悪かった。
 
それにつけても、中国では、反日教育をかなりしつこくやってきているみたいだが、大体えげつない仕打ちをした方はあっさり忘れても、ヤラレた方はいつまでも忘れないものだ。ただ、東京大空襲を指揮した米軍の司令官だった親爺に、戦後自衛隊に貢献してくれたからといって、勲章までやってしまう日本の政治家は、忘れっぽい奴が多いみたいだ。
 
映画の話に戻ろう。チャン・イーモウは、テーマカラーを決めるのが好きみたいだ。ま、色にこだわる気持ちは分からなくもないが、『ヒーロー』ではやりすぎの感があった。この映画の場合、背景になっている中国の景色が、どちらかというと黄土色ぽいので、紅い色がよく合っていた。
 
◆◆ネタバレ注意◆◆日本軍が村人を駆り出して、コーリャン畑を踏み倒させていたのだが、何故あんなことをしてたのかと思って、ネットで調べたら、こういうことだった。長崎大学教育学部のサイトに、こんな記事があった(今はもうない)。 
 
「(前略)中国農民にとって、『コウリャン』という背の高い穀物は、当時何にでも使えたので、農民達は綿花を作るかたわら、コウリャンの育成に力を注いでいた。しかし、八路軍と日本軍の抗争が激しくなると、コウリャンは八路軍が隠れるのに絶好であったので、日本軍はこのコウリャンを刈りとってしまった。必需品であるコウリャンを刈りとられた中国農民もやはり、日本軍に対して反感を持つようになり、(中略)反発を受けた日本軍は強行手段に出ることになる。夜の間に村を包囲して、夜明けとともに大砲を撃ったり、手榴弾を投げたりして村を壊滅させてから、村の綿花を奪いに村へ入った。八路軍が村人の中に混じって反抗してきたけれども、日本兵は1人120発の弾を持っているのに対して、八路軍は1人8発しか持っていなかったので、相手にならなかった。逃げ惑う村人を見かけては八路軍だといって殺し、女性を見かけては強姦していた。(後略) 」って、かなりバイアスの掛かった話かも知れない・・・。
 
ただ、映画ではこの辺りの事情をあまり説明していなかったので、やや唐突な感があった。それにしても、日本人や日本軍が出てくる外国映画は、第3者的に気楽に観てられない。外国映画に出てくる日本人は、我々が観たらどこかおかしい。日本映画で外国人が出てるのも、その国の人が見たら、やはりおかしいのだろうか? 
 
それと、紅いコーリャン酒って、できるものだろうか?どうみても、あの酒は蒸留酒だった(火がついていた)が、蒸留酒というは、できたては無色透明だろう。それにしても、コン・リーが丼鉢一杯飲み干していたが、あんな大胆なことしたら、どエライことになるのじゃないか?しかも、あの小さな子供まで飲んでいた。それから、篭かきだったはずの男が、悪ふざけで、できたての酒に小便を引っかけたりしたら袋叩きになるだろう。そいつが親方にすり替わったといういきさつも、いまいち納得できない。 ◆解除◆
 
この映画の邦題『紅いコーリャン』も、いささか変だ。原題の『紅高梁』いうのは紅芋(ベニイモ)とか赤蕪(アカカブ)などと同じで、種名ではないのか?コミュニズムに染まったコリアンと勘違いしてしまった。
 
紅いコーリャン 紅高梁 RED SORGHUM (1987) 中国  
出演:コン・リーチアン・ウェン、トン・ルーチュン、リウ・チー 

『ペーパームーン』は、話が行き当たりばったりにはならないから、観ていて腹は立たないロードムービーだ。

久方ぶりに『ペーパームーン』を観た。40年ぶりくらいか?この映画、元々戦前のトーキーみたいな感じになるように、当時ではもうほとんどなかったモノクロ・スタンダード画面にしてあるから、今観ても格別古くなったという感じはあまりしない。
 
かなり前に『都会のアリス』をけちょんけちょんに貶した時に、ご贔屓の『レオン』と比較していたのだが、同じ比較をするのだったら、これとしろよという意見もあった。確かにこの映画も、中年の詐欺師の親父とこんまい女の子の道行きロードムービーなんだが、『都会のアリス』と違って、話が行き当たりばったりにはならないから、観ていて腹は立たなかった。
 
ま、よくできている(何をエラそうに)。ただ、「9歳でここまで世間智に長けているような、こんなませたガキはいないだろ!」というのが正直な感想だった。しかし、近頃のガキなら、この程度の詐欺だったら、お茶の子さいさいでこなしてしまうのかも知れない。
 
この映画にしても、『レオン』にしても、主役は女の子の方だった。『レオン』はレオンが主役だろと言われるかも知れないが、あの話もよく考えれば、レオンはマチルダの復讐計画に巻き込まれたというか、片棒を担がされたというか、やたらマチルダが主導権を握ってレオンをリードしていた。この映画のアディという女の子も、詐欺の片棒を担ぐというより、もっと積極的に悪事に参加していた。詐欺力では、この子の方が一枚上手といった感じだった。
 
ところが、『都会のアリス』の場合は、あくまでおにいさんが主役で、女の子は脇役だった。あのおにいさんが女の子をそこら中連れまわしていたのだ。まぁ、そんなことはどうでもいい。あの映画より『レオン』の方がお気に入りだというだけのことだ。
 
さて、この映画の話に戻ろう。1930年代のドルの値打ちはどの程度のものだったのか?アディの母親をひき殺した男の兄貴に示談にしてやると言って、金をだまし取りにかかっていたが、結局200ドルで手を打って、その金で中古車を買っていた。買うた車が200ドルだったとすると、(それまでに乗っていたボロタンを下取りに出しているだろうから、250ドルくらいか?車の値段が現在の日本円で50万円くらいとしたら、1ドル2000円のレートになる。ということは、詐欺商法のネタに使っていた8ドルの金文字名前入り聖書は16000円ということだ。ま、それくらいの金だったら、騙される善良な人も多かったかもしれない・・・。
 
それから、アフリカ系アメリカ人のメイドの子が自分の雇い主のおねえさんを「25ドル(5万円)だったら、道の真ん中でもパンツを脱ぐだろう」と酷評していたけれど、ま、5万円なら妥当な相場か?そっち方面は盆暗だから、よくは知らないのだが・・・。
 
この映画の舞台は、アメリカ中西部のカンザス州だ。カンザス州とミズーリー州は隣合っている。カンザスシティは、カンザス州側とミズーリー州側に川を挟んでまたがっていて、どちらかいうとミズーリ州側の方に人が多く住んでいるというややこしい街だ。それだったら、ミズーリーシティにしろよと思った。ま、グレートプレーンズ(大平原地帯)の真っ只中にあるから、ちょっと街を出ると、見渡す限り何もない。地平線だけ。その中を地の果てまで続く一本道が通っている。山頭火の『まつすぐな道でさみしい』というのは、こんな道かも?
 
あの映画の『時そば』みたいな詐欺の手口、ぼうっとしていたら、よく分からなかった。そこで再検証してみると・・・、
 
まず、50セントくらいの安いもの(商品)を買って、5ドル札を出す。釣り銭を受け取ってから、もう5ドル出して、「さっきの5ドルと合わせて10ドル札にしてくれ」と言うのだが、確かに客が立て込んでいたりしたら、うっかり両替と勘違いしてしまいそうだ。これって、結局9ドル50セントと商品を掠め取られたことになる。
 
テイタム・オニールは、この映画でアカデミー賞の助演女優賞を最年少で受賞したそうだが、確かに大した名演技だった。その後、ジョン・マッケンローの嫁さんになっていたらしいが、離婚してカムバックしたものの、名子役は大成しないという格言(?)どおり、鳴かず飛ばすだった。『バスキア』にも、ちょい役で出ていたらしいが、気がつかなかった。
 
実の父のライアン・オニールも『ある愛の詩』の他には、この映画と『バリー・リンドン』くらいしか代表作がない。と言っても、『バリー・リンドン』は、キューブリック監督の手柄だけど・・・。
 
ペーパームーン Paper Moon (1973) アメリカ  
監督: ピーター・ボグダノビッチ