『ライフ・イズ・ビューティフル』は、「ちょっと調子よすぎるのと違うか」という展開だったが・・・。

映画評論とまではいかなくとも、ネタバレさせずに映画の話をしようとすると、これが実に難しい。感動した部分や気に入った部分、おもしろかった部分をストーリーの説明を一切せずに語るのは至難の業だ。「エンディングさえバラさなかったらいいんじゃない」「最後に主人公が殺される」とか「こいつが犯人だ」とさえ言わなかったら、オッケイみたいな話になってしまうようだ。
 
ところで、この映画も、泣けた。どこで泣けたかというと、◆◆ネタバレ注意◆◆やっぱりラストのアメリカ軍の戦車を見て、子どもが叫ぶところ。これを「ラストです」とさらっと流すと、感動がいっこうに伝わらない。
 
前半は、ラブロマンス風の話だが、後に結婚するドーラが何となくおばさんぽくって、ヒロインという感じがあまりしなかった。この映画はコメディタッチのヒューマンドラマがウリだから、ヒロインがかわい子ちゃんでなくても一向に構わないんだけれど。。。で、おばさんぽいドーラ役の女優は、実はロベルト・ベニーニの妻のニコレッタ・ブラスキだった。ジム・ジャームッシュ監督の『ダウン・バイ・ロー』にも夫婦揃って出演していた。あの映画は1986年製作だから、この映画のざっと12年前。そりゃ、ニコレッタさんが老けるのも自然の摂理、致し方なし。 
 
後半のナチスユダヤ人収容所では、果たしてあんな風に子どもを隠し通せるものかといささか疑問に感じた。しかも、主人公は収容所長に取り入って給仕になり、楽な仕事をしながらガス室送りを免れていたりする。う~ん、いくら芸は身を助くと言ったって、まわりのユダヤ人から「お前、ちょっと調子よすぎるんじゃないか」と嫌味のひとつも言われるような展開だった。
 
しかし、最後の最後に、子を想う親の無償の行為を見せつけられると、どばっと涙があふれてしまった。このラストの部分を詳細に語らずして、この映画から受けた感動を語ることは可能なのか?あの小林秀雄は観てきた映画や芝居を家人に語るのが非常にうまかったと、何かの本に書いてあったような気がする(うろ覚え)が、きっと聞かされた方は、すっかり観たような気になってしまって、わざわざもう一回観に行く気をなくしたんじゃなかろうか。◆解除◆
 
ちなみに、amazom.co.jpのDVDのレビュー記事を再録してみると、「1939年イタリア、トスカーナ地方。主人公のユダヤ系イタリア人グイドは、いつも陽気で人々を楽しませる達人。グイドと『お姫様』のドーラは恋に落ち、息子ジョズエをもうける。しかし、間もなくナチス強制収容所へ…。そこでもグイドは幼い息子に悲惨な現実を悟られないよう、ひたすら笑顔で陽気に振舞い、嘘をつき続ける。ユーモアと悲哀が混ざり合い、人生のすばらしさを謳いあげた作品。イタリアの名優ロベルト・ベニーニ演じるグイドの、体を張った豊穣な愛が美しい。ラストは涙、涙、涙…」と、まぁ、うまくまとめてある。
 
これはまだ映画を見てない人が対象の紹介記事だからこんなものでいいのだろうが、映画のディーテール(例えば台詞やシーン)に触れずして、インプレッションをうまく語ることが出来るかしら。う~ん、難しい。映画の予告編みたいに、ちら見せする感じで、映画の背景と前段のちょっといいシーンやエピソードをかいつまんで書いて、後は見てのお楽しみというのは、読む方にとっては、映画への期待感は多少高まるものの、ストーリー自体はなんのことか?よく分かないままだろう。同時に、既に映画を見た人に、このシーンのここがおかしいのじゃないか、こんなストーリー展開はご都合主義が過ぎるとかと、重箱の隅をつつくようなつっこみを入れるのも、よけいなお世話っぽい。
 
しかし、まぁ、このブログは、「映画への愛情あふれるつっこみを入れる」のが基本なので、出来るだけ隅っこつつきにならないように気をつけながらつっこみを入れたい。つっこむところを間違えて、顰蹙を買わないようにしなければと、自制しつつ・・・。
 
さて、この映画もそうだが、ハッピーエンドであるなしは問わないが、運命の大波にも蹂躙されながら、それでも土壇場で真人間らしさを発揮する人物を描いた映画が、私は贔屓なようだ。人間らしさではなくて、あえて真人間らしさというのは、人間らしい行為は、善悪、好悪、清濁、虚実、フェア、アンフェア etc.が綯い交ぜになっているからで、あえて真をつけたい。「世の中にゃあ、ちったぁ小マシな人間がいるもんだ」(なぜか江戸っ子になったりして)と思わせる映画がお気に入りだ。と言いつつ、破天荒な極道人生を描いた映画も捨てがたい。
 
 
ライフ・イズ・ビューティフル LA VITA E BELLA (1998)イタリア
監督・脚本:ロベルト・ベニーニ 
出演:ロベルト・ベニーニ、ニコレッタ・ブラスキ