『ロード・トゥ・パーディション』は、ヒットマンを変質者にしたから、ヒットしたんだと言われたら、黙るしかない。

元々、ポール・ニューマンがお目当てで観ようと思ったのだが、全然ギャングの親分には見えなかった。平気で人殺しを命じるような性根の腐った屑男の感じがしない。やはり人品骨柄の問題だ。ポール・ニューマンは汚れ役に向かない。トム・ハンクスもインテリやくざっぽく見せようと頑張って演技していたかも知れないが、こっちもFBI捜査官の方が似合う感じだった。
 
◆◆ネタバレ注意◆◆マフィアものというか、ギャング映画は日本の任侠映画と同じで、それなりの様式があるようだが、この映画の場合、ギャング社会の義理人情より、親子のどろどろした愛憎の方にウエイトが掛かっているので、あまりギャング映画を観た感じはしなかった。
 
後半の殴り込みシーンも、降りしきる豪雨の中というケレン味たっぷりのシチュエーションで、わざわざ音まで消してマシンガンぶっ放し、最後にポールニューマンひとりが立ちすくんでいるところで雨音が戻り、次にババババババババババババババという発射音が聞こえる演出は、かえって様式美がじゃまをして、リアリティを失わせる結果になったのではないか?それにしても、へぼな子分というか、無能なボディガードばっかりだ。お前らは無抵抗主義者か。
 
殺し屋に撃たれた傷を見知らぬ農民夫婦が手当してくれるという展開も、監督のご都合主義以外の何ものでもない。一応、エンディングの伏線にはなっているが。ま、映画や芝居はすべからく偶然の積み重ねでドラマを作っているので、多少のご都合主義は仕方ないが、ここまでラッキーな設定はアリか?。
 
大体、ボスの息子だけを狙うのだったら分からないこともないが、嫁さんと息子を殺されたことへの復讐のためとは言いながら、ボスの国外に出ろという申し出を断ってまで全面戦争を仕掛けた理由は何なんだ?初めから死ぬ気だったのか?それなら息子に片棒担がせた理由は何なんだ?自分と同じ道は歩かせたくないと言ってたのではなかったか?と、疑問は、切れかけた電球のように、ついたり消えたり、チカチカ瞬くのだった。
 
この映画で一番目立っていたのは、死体愛好家にして新聞社の契約カメラマン、裏の稼業は殺し屋というとんでもない変質男。ジュード・ロウがやっていたが、寡聞にして当時その役者を知らなかった。こいつはかなりマジでキレていた。最初に出てきたときから、怪しい奴だと直感したが、死にかけている男の口をハンカチかなんかでふさいだりする。「おいおい、何をするんだ」と、思わずつっこんでしまった。こいつが執念深いというか、プロ意識に徹しているというか、しつこく追いかけて来る。行くところ、行くところ、先回りされて、それでも危機一髪、命からがら逃れ続けるあたりは、破滅へ一直線映画だ。
 
ラスト間近の海辺のおばさんの家のシーンは、いくらなんでも不自然だ。あんなにしつこいヒットマンに狙われているというのに、不在と分かっていながら、鍵も掛かっていない家に用心もしないで入って行くのがおかしい。しかも、窓から海をのんびり眺めている場合か。「言わんこっちゃない、撃れちゃった」ここでまた、画面につっこんでしまった。◆解除◆
 
どうもアメリカ映画には、やたらと変質者が出てくるものが多いが、ま、犯罪ものの5分の4はそうかな。21世紀になっても、いまだに映画が因果応報的見せ物小屋から抜け出せていない証拠だ。古くは宮﨑勤から、自殺願望ゴスロリ少年&少女の家族殺傷事件や、友人を殺して解剖願望を実現した女子高生や、おので老女を殴り殺して殺人願望を成就した女子大生まで、インターネットで検索すると、ロリコンやら変態趣味やらの訳の分からない有象無象がまき散らされている。これまでアンダーグラウンドの深い暗部にひっそり蹲っていた魑魅魍魎の類が、仲間を求めて蠢きだしたというような不気味な感じがしているのは、果たして私一人だろうか。
 
この手の分からん仁(じん)に、映画がつまらぬ悪影響を与えているように思えてならない。この映画も、ヒットマンが変質者でないと、ダメなのか?堅気というか、地味な親爺ヒットマンで、影のように現れ、風のように通り過ぎて行くキャラにしたら、いかんのか?ヒットマンを変質者にしたから、ヒットしたんだと言われたら、黙るしかないが・・・。
 
ロード・トゥ・パーディション THE ROAD TO PERDITION(2001)アメリカ
監督:サム・メンドス