『スタンド・バイ・ミー』は、キムタクには先天的になれなくとも、いい奴にはなれることを教えてくれる。

この映画の主題歌は、ジョン・レノンが歌ったカバーバージョンが特にお気に入りだが、ベン・E・キングのオリジナルもいい感じだ。スティーブン・キングの原作も結構よかったが、この映画の方がもっとよい。映画の主役は、ゴーディ役のウィル・ウィートンだろうが、なんといってもクリス役のリバー・フェニックスが、すこぶるよろしい。
 
クリスのいい奴なところは、強さと優しさを併せ持っているところだ。決してよい子ではないが、手のつけられない悪ガキでもない、正義感が強すぎるワケでもないが、理不尽なことには立ち向かっていく。そういうバランス感覚が、昔も今も、男の子がカッコよく見える条件だ。キムタクには先天的になれなくとも、いい奴にはなれる。そんな男の子としての基本的なことを教えてくれる意味でも、ホントいいことづくめの映画だった。
 
15才で観るのもいいが、日本人は奥手だから、はたちで観てもいい。男の子はこういう生き方をすべしというお手本を示してくれる。まさに映画がいい意味の教育装置になっている。もちろん40過ぎでも遅すぎることはないが、なくしたものの多さが悔やまれ、現在の自分のていたらくに愕然とするだろう。
 
70過ぎのジジイ(こいつらが現在のどうしようもない日本にした張本人だ。団塊世代以前の戦前生まれの連中は、はっきり言ってろくな奴がいない)が初めて観るとなると、果たして感動できるのか疑問だが。なにしろ老いるというのは、現実への興味や関心も薄れるが、同性の若者への共感がまったくなくなることが歴然だ。今時の若いものへの弾劾は歴史的に繰り返され続けている。ただし、異性の若者(この場合は孫のような娘)への執着だけは結構残っていたりして、なまぐさい。
 
スティーブン・キングの小説を映画化した作品はたくさんあって、どれも結構出来のいいと思うが、この映画と『ショーシャンクの空』は映画の方がよくできている。『シャイニング』『ミザリー』『キャリー』『ペットセメタリー』はまずまず。『グリーン・マイル』と『ゴールデンボーイ』は映画の方は失敗作かも、小説の方がずっとよかった。『ドリーム・キャッチャー』は小説は読んだが、映画はまだ観ていない。あんな臭うがごとき話、うまく映像化できるとも思えないのだが。
 
さて、あのアメリカの少年たちと違って、我ら日本のシティーボーイは、自然だらけの環境では育っていなかった。林もなければ沼もない。雨の後はそこいら中に水たまりが出来た。表通りは舗装されていたが、横町(発音はよこまち、大阪人は横丁とは言わない)は、大抵地道だった。昭和30年代は、まだ路面電車が走っていたから、線路はあったが、身近にあんな鉄橋はない。近くの寺町に墓場はあった。
 
大阪のど真ん中で育ってしまったから、子ども時代の遊び場といえば、木の上の小屋じゃなくて心斎橋の大丸やそごう(今は大丸北館)の中を走り回ったりしていた。ただ、空き地がそこいら中に残っていて、(最近は地上げの後遺症で、町中に歯抜けのような空き地があるが、ほとんどコンクリートで固められていて無人パーキングになっているから、子どもの遊び場にはならないようだ)3角ベースくらいは出来た。
 
そういえば、空き地にはあつらえたように土管が置いてあった。下水道の整備が急ピッチで行われてた時代なのだ。うちも小学校の頃まではポットン便所だったなぁ。ニオイまで思い出してしまった。。。ポットン便所は、最後の水切りが難しい。落下物がまっすぐに入水したら、おつりが跳ね返って来る。そこで、肛門から離脱する寸前にお尻を左右に振って、ひねり入れる。飛び込みで言ったら、伸身半ひねり棒型だ。このタイミングが難しかった。
 
それにつけても、少年にとってかけがいのない12才の夏。この映画の場合、アメリカは新学期が9月なので、彼らは小学6年生の最後の夏ということになっていたが、日本では中学1年の夏だ。中学生になると何が変わるか?下半身に毛が生える。近頃のガキは小学生で既にボーボーなのもいるらしいが、我らの世代はまさに中学1年生が若草萌えいづる季節だった。小学生では、親の監視が結構きついから、子ども同士で遠出はできなかった。それが中学生ともなると、おおっぴらに遠出できるようになる。ま、ちゃりんこで行ける範囲だから、遠出といってもたかが知れているが、大阪城まで遠征すれば、それなりの大自然があった。
 
今思い返しても、我が小学生時代はぼんやりとした靄に包まれてるようで、自我の目覚めというものがほとんどなかった気がする。何気なく生きているだけの、可もなく不可もないガキだったのだろうか。人間以前、つまり動物状態だった。確かにクラスのかわい子ちゃんには、多少なりと恋心に近いものを感じたりしたことはあったかも知れないが、抑えがたい性衝動を感じるワケでもなかった。
 
ところが、中学生ともなると、まさに子供から中供になる過渡期だ。銭湯のお金を払うときに女風呂をちらと覗いたことに大いなる罪の意識を感じたり(確か料金表には中供というのがあったな)、妙に色っぽい女の先生のノースリーブの脇の下にどぎまぎしたり、(どうしても下半身話がメインになるが)挿入歌という言葉だけで真っ赤になったりしたものだ。
 
12才の少年Aは、まるで脱皮するように全身で子供時代から抜け出そうともがいていた。醜い青虫が華麗な蝶になるわけではないが、かといってグレゴール・ザムザのように、ある朝、虫に変身したワケでもない。残念ながらこの映画の4人組のようなスペシャルなひと夏の経験はなかったが、日々アイデンティティの獲得とガキの自分との決別で結構忙しかった。 
 
記念すべきターニングポイントは中2の秋だ。そう、ビートルズに出会ったことだ。あれから50年。刻苦勉励、艱難辛苦、臥薪嘗胆して、うつせみの森羅万象を理解せんと欲して、あまたの書籍を渉猟し続けた。その結果「人生とは、死ぬまで生きるための暇つぶし」という我がライフスタイルの神髄にたどり着いた。
 
少年期の記憶はすでに忘却の彼方に埋もれてしまったが、あの当時、とにかく世間智を多く身につけ、訳知り顔になることが、我ら中学生の最大の目標だった。みんな耳年増、若年寄になりたがった。一時よく言われたピーターパン・シンドロームだとか、世界にひとつの花探しだとか、いつまでたっても無垢な子供のままでいたいなどとは、夢にも思わなかった。
 
この社会を形づくっている大人たちが、決して尊敬に値する連中ばかりではなくて、身勝手なガリガリ亡者やスケベ親爺がやたらといるし、どちらかというと品行の悪い奴の方が多いのじゃないか、清濁併せ飲むのが大人というものだとか、きれい事ばかりではやっていけないとか、虫も殺さんような顔をして結構悪どいことをしでかする奴とか、世の中のダークサイドをかいま見るにつけ、真人間として生きていくことの困難さ、高潔であることの切なさ、ズルをしないで生きることの難しさ、マイルールに則って生きることのやるせなさを痛感し、かといって正義感を振り回すのも億劫で、世の中はあまり振り切らずに、ぶらんぶらんしているくらいのいい加減さがいいと肝に銘じた。
 
いたいけな少年だった少年Aは、「山よりでっかい猪(しし)は出ん」「死ぬまで生きよう暇つぶし」「冗談なくして快楽なし」「つっこみ入れてりゃストレスなし」の達観した境地に、弱冠15才にして到達した。
 
・・・これって、映画評?それとも自分史? ところで、「スタンド・バイ・ミー」の主題歌を歌うときに、どうしても「スタン・バイ・ミー」とドが発音できないのは、果たして私ひとりだろうか? 
 
それにつけても、今時の中学生はまるで宇宙人のようだと言われる。どういう風に宇宙人なのか?一時の荒れた中学校は最近はどうなのか?校内暴力より校外殺人やら校外援交に忙しくなったのか?最近では小学校の方が凄いことになっているらしい。少年犯罪というと、私の頃は高校生がメインだったが、ついに小学生のしかも女の子による殺人事件まで起きてしまった。親の背中を見て子は育つというが、今時の子供の親たちは、何故宇宙人を大量生産してしまったのか?責任者出てこい!!
 
日本はアメリカに10年遅れて破滅への道(つまりロード・トゥ・パーディションだ)を辿っていると言われている。確かに最近の女子高生を見ると、茶髪は当たり前で金髪のもいたりする。20年前はたぶん茶髪すら珍しかっただろう。女子高生で茶髪は皆無だった。それが、鼻ピアスやら、タトゥーやら、一時の顔黒は廃れたようだが、ゴシックロリータやら、コスプレやら、なにやら、カニやら、エビやら、イカやら(寿司屋のネタか~ッ)。こいつらが大人になっても、まともな親になるとは到底思えない。そういえば、毎朝の通勤電車の中で、化粧をするバカ女がいて、目障りでしょうがない。周りの乗客全員がスマホの画面を眺めているシーンには、慣れっこになったが・・・。
 
バカ女に比べて、男がどんどんひ弱になっていくのは何故?団塊世代平均余命はあと20年くらいと言われているから、後顧の憂いはないようなものだが、最近生まれた二人の孫が生きていく未来で、この国が品位の低すぎない、普通の国であって欲しいものだ。
 
スタンド・バイ・ミー STAND BY ME.(1986)アメリカ
出演:ウィル・ウィートン リバー・フェニックス